1970年のボーラ・サイクロン
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[10]チッタゴンの港では1.2m の高潮に加えて嵐により4mの高波が襲った。[9]

パキスタンのラジオはチッタゴン付近の13の島では生存者は皆無であると伝えた。現地上空を飛行し観察したところではボーラ島の南半分は完全に荒地となり、ボーラ島、ハチヤ島と近隣の本土沿海部の稲作地帯は根こそぎにされていた。[13]チッタゴンの港とモングラ港では若干の船舶が損傷し、チッタゴンとコックスズ・バザーの空港は数時間の間1m (3ft)の水に覆われた。[14]

被災者は360万人を超え、被害総額は8,640万米ドル(1970年当時。2007年換算で46,000万米ドル)と推計された。[15]生存者によると現地では家屋の85%が全半壊し、中でも沿海部の被害が著しかった。[16]漁業従事者の90%が大きな損失を被ったが、これには次のものが含まれる。即ち9,000隻の沖合漁船が破壊され、近海漁師77,000人中46,000人が死亡した上、生存者の40%が重大な被害を受けた。この沿海地方は蛋白質摂取量の80%を水産物に頼っていたのだが、全てを合わせると同地の漁業能力の65%が嵐で破壊された計算になった。農業への被害も同様に激しく、6,300万米ドル相当の農産物が失われると共に28万頭の畜牛が死んだ。[9]嵐から3か月過ぎた時点で人口の75%が救援隊員からの食料援助を受けており、15万人以上が食料の半分を援助に頼っていた。[17]
死者数

タナ
以前の人口
死者数
死亡率

カラパラ
88,000人8,000人9%
アムタリ41,000人2,000人5%
ガラチパ319,000人45,000人14%
チャー・ファッソン171,000人38,000人22%
ラルモハン104,000人23,000人22%
タズムッディン167,000人77,000人46%
ハティヤ219,000人18,000人8%
ラムガティ217,000人24,000人11%
サドハラム35,000人6,000人17%
合計1,361,000人241,000人17.7%

パキスタンとSEATOのコレラ調査研究所によって、11月と2?3月の二回に渡り医療上の救援調査が実施された。一回目の調査目的は被災地で必要な緊急医療の内容を決定することであり、二回目のより詳しい調査は長期的な医療と復興支援を計画するために実施された。二回目の調査においては、該当地域人口のおよそ1.4%が調査された。[18]

一回目の調査結果として、殆どの被災地地表にある水の含塩量は井戸水と同程度だったが、サドハラムは例外であり、同地の水は塩分濃度が0.5%に達し飲用に適さなかった。死亡率は14.2%と推定されたが、これは24万人が死亡したことを意味した。[19]サイクロンに起因する傷病は一般に軽い外傷に限られたが、「サイクロン症候群」と呼ばれる現象が観察された。これは四肢と胸部における重度の擦過傷から成るもので、生存者が高潮に耐えるため樹木にしがみついたのが原因だった。[19]初期にはコレラ腸チフスの流行が懸念されたが、[20]結果的に被災地ではコレラも天然痘も他の伝染病も蔓延している証拠は認められなかった。[19]

二回目の調査では調査対象から幾つかの集団が漏れたため、恐らく無視できないほど過小評価だった。米を収穫する10万人の季節労働者や、嵐で生活基盤を完全に失って三ヶ月の間に被災地から流出した住民が含まれなかった。尤もこのため風聞や誇張が入り込むリスクは低減したかも知れない。[18]このときは死者数の下限を22万4千人と結論した。最大の被害を出したのはタズムッディンであり、同地の死亡率は46.3%とされた。これは同地域だけで約7万7千人が死んだことに相当する。被災地全体を通じた平均死亡率は16.5%とされた。[21]

調査結果によると生存率が最も高かったのは15?49歳の男性であり、死者の過半数は10歳未満の子供だったが、サイクロン前における10歳未満の子供の比率は人口の三分の一に過ぎなかった。つまりサイクロンと高潮の犠牲者は主に老人・子供と病弱者だった。サイクロンから数ヶ月経過後、被災地における年齢的に中位の集団はダッカ周辺の対照群に比較すると死亡率が低かった。これは嵐を通じてさほど頑健でない個人が間引かれてしまったことを反映している。[22]
余波
政府の対応過ちがあり、遅延があったが、全てが成されつつありまた成されるだろうことに私は大変満足している。アグハ・ムハンマド・ヤヒヤー・ハーン[23]

嵐が沿海部を襲った翌日、パキスタンの沿岸警備艇と病院船の3隻が医療関係者と物資を積んでチッタゴンを発ち、ハチヤ、サンドウィプ、クトゥブディアの各島へ向かった。[14]パキスタン陸軍は嵐の上陸後二日間の内に多くの被災地に到着した。[24]パキスタン大統領のヤヒヤー・ハーンは訪問中だった中国から引き返し、11月16日に被災地域を空から視察した。大統領は被災者の救援に向けて「如何なる努力をも惜しむな」と命じた。[25]彼はまた、被災から一週間後、11月21日を国全体の服喪の日と宣言し、全ての旗を半旗に掲げるよう命じた。[26]

サイクロンが襲来してから10日の間に、パキスタン政府によって軍の輸送機一機と農薬散布用の飛行機三機が救援活動用に割り当てられた。[27]パキスタン政府は西パキスタンから軍用ヘリコプターを振り向けることはできないと述べた。


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