1970年のヤクルトアトムズ
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1970年のヤクルトアトムズ
成績
セントラル・リーグ6位
33勝92敗5分 勝率.264
[1]
本拠地
都市東京都新宿区
球場明治神宮野球場

球団組織
オーナー松園尚巳
経営母体ヤクルト本社
監督別所毅彦(8月20日まで)
小川善治(8月21日から)
≪ 19691971 ≫

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1970年のヤクルトアトムズ(1970ねんのヤクルトアトムズ)では、1970年のヤクルトアトムズの動向をまとめる。

この年のヤクルトアトムズは、別所毅彦監督の3年目のシーズンである。
概要

この年の1月、産経新聞が保有していた球団株をヤクルト本社に完全譲渡(ただし、テレビ・ラジオ中継などの後援関係は維持)し、ヤクルト元年のこの年は4月を5勝7敗1分とまずまずのスタートも、5月に4連敗以上を3回記録して最下位に転落した。6月は4連勝を含む7勝11敗と健闘するも、7月4日から11連敗となった。8月4日から始まった連敗が11となったところで別所監督が解任され、小川善治2軍監督が代理監督を務めた。だが、監督交代後も連敗は続き、球団史上最長タイの16連敗[2](2回目は2019年)を喫し、最下位に終わった[3]。所属する選手にも不祥事が相次ぎ、6月18日には無免許運転で事故を起こした加藤俊夫が無期限出場停止、9月8日にはこの時期球界で騒がれていた「黒い霧事件」がヤクルトにも飛び火、桑田武がオートレース八百長で逮捕され出場停止、そして加藤と同期入団の奥柿幸雄が失踪で引退になるなどまさに踏んだり蹴ったりの状態だった。投手陣は石岡康三浅野啓司の6勝が最高で、前年9勝の2年目・藤原真も僅か1勝(10敗)しか挙げられず、石戸四六松岡弘ら主力投手陣も大きく負け越すなど崩壊した。頼みの綱の打撃陣もチーム総本塁打数69本、チーム打率.215で不振だった。対戦成績は6連覇の巨人相手にビジターで全く勝てず、5勝21敗で同一カード11連敗(うち3試合が完封負け)を喫した。しかし、唯一の明るい話題はチームでただ一人全130試合フル出場の東条文博が28盗塁で初の盗塁王を獲得した。この年のドラフト会議で3位の若松勉を筆頭に、1位の山下慶徳、8位の会田照夫、10位の杉浦享1978年初優勝時のV戦士が指名されて入団。また前年のドラフト会議大洋に1位指名されながら入団を拒否し、アメリカ野球留学をしていた荒川尭早稲田大学)が10月7日にいったん大洋に入団した後、12月26日にトレードで入団した。なお、荒川は翌シーズン開幕から1ヶ月間出場停止のペナルティを受けたが、チームにとって新たなスターが誕生した。
チーム成績
レギュラーシーズン

開幕オーダー1中大塚徹
2遊東条文博
3一チャンス
4右ロバーツ
5左西園寺昭夫
6二武上四郎
7三中村国昭
8捕加藤俊夫
9投石岡康三

1970年セントラル・リーグ順位変動順位4月終了時5月終了時6月終了時7月終了時8月終了時9月終了時最終成績
1位巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--
2位広島0.5阪神0.5広島5.5大洋5.5阪神3.5阪神3.0阪神2.0
3位阪神2.0広島2.0大洋6.0阪神6.0大洋6.0大洋4.5大洋10.0
4位ヤクルト3.0大洋5.5阪神7.0広島8.0広島10.0広島10.5広島15.0
5位中日3.0中日6.5中日11.5中日16.5中日14.5中日19.0中日23.5
6位大洋3.5ヤクルト9.5ヤクルト15.0ヤクルト21.0ヤクルト29.0ヤクルト35.0ヤクルト45.5


1970年セントラル・リーグ最終成績順位球団勝率
1位読売ジャイアンツ79474.627優勝
2位阪神タイガース77494.6112.0
3位大洋ホエールズ69574.54810.0
4位広島東洋カープ62608.50815.0
5位中日ドラゴンズ55705.44023.5
6位ヤクルトアトムズ33925.26445.5

オールスターゲーム1970詳細は「1970年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照

ファン投票武上四郎
監督推薦浅野啓司


取り消し線は出場辞退

できごと

6月18日 - 無免許運転で事故を起こした加藤俊夫に球団から「無期限出場停止」処分が言い渡された。


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