1968年アメリカ合衆国大統領選挙
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1968年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1968

1964年 ←
1968年11月5日
→ 1972年


投票率60.9%[1] 1.0%
 
候補者リチャード・ニクソンヒューバート・ハンフリージョージ・ウォレス
政党共和党民主党独立党
出身地域カリフォルニア州ミネソタ州アラバマ州
副大統領候補者
スピロ・アグニュー
エドマンド・マスキー
カーチス・ルメイ
獲得選挙人30119146
勝利地域数3213 + DC5
得票数31,710,47031,271,8399,901,118
得票率43.2%42.7%13.5%


州別獲得選挙人分布図
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選挙前大統領

リンドン・ジョンソン
民主党選出大統領

リチャード・ニクソン
共和党

1968年アメリカ合衆国大統領選挙(英語: United States presidential election, 1968)は、1968年11月5日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第46回)。
候補者指名争い
共和党

候補者:

リチャード・ニクソン、元副大統領

ロナルド・レーガンカリフォルニア州知事

ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事

ハロルド・スタッセン、元ミネソタ州知事

ジョージ・ロムニーミシガン州知事(選挙戦から撤退)

ジェイムズ・ローズ、オハイオ州知事(正式な立候補はせず)

党の有力者の多くは様々な問題を抱えていた。リチャード・ニクソン元副大統領は共和党員の間での待望論が強かったが、一般に1962年のカリフォルニア州知事選挙での敗北で政治生命を絶たれたと考えられていた。ネルソン・ロックフェラーニューヨーク州知事は、自らの離婚で人気を失っていた。また前回の候補者、バリー・ゴールドウォーター上院議員は前回選挙での惨敗により、再び候補者として名を挙げられることはなかった。こうした中で、ジョージ・ロムニーミシガン州知事が、ビジネス界での成功と知事としての高い評価を背景に最有力候補者となった。しかし、ベトナム戦争を巡る彼の発言が適切さを欠いたことから支持を失い、撤退を余儀なくされた。イリノイ州選出のチャールズ・パーシー上院議員、ジョン・リンゼイニューヨーク市長らの名も挙げられたが、立候補を表明しなかった。ロムニー撤退後、立候補表明をしていたニクソン、レーガン両候補と急遽立候補を表明したロックフェラーの三人の有力候補が争ったが、終始ニクソンがリードした。8月5日から8日にかけてフロリダ州マイアミビーチで開かれた党大会において、ニクソンは1回の投票で候補者に指名され復活を遂げた。

副大統領候補としては、ロムニーや指名を争ったロックフェラー、レーガンが取り沙汰されたほか、ジェラルド・フォード下院院内総務はリンゼーを公式に推薦した。しかし、ニクソンはこれら大物候補ではなく、全国的に無名のスピロ・アグニューメリーランド州知事を副大統領候補に選んだ。
民主党

候補者:

ヒューバート・ハンフリー、副大統領

ロバート・ケネディニューヨーク州選出上院議員

ユージーン・マッカーシーミネソタ州選出上院議員

ジョージ・マクガヴァンサウスダコタ州選出上院議員

ジョージ・スメイサーズ(英語版)、フロリダ州選出上院議員

スティーヴン・M・ヤング(英語版)、オハイオ州選出上院議員

リンドン・ジョンソン、大統領(選挙戦から撤退)


トマス・リンチ - カリフォルニア州司法長官

ロジャー・ブレニガン - インディアナ州知事

当初、現職のリンドン・ジョンソン大統領が容易に党の候補者指名を獲得するものと思われていた。一方でユージーン・マッカーシー上院議員がベトナムからの即時撤退を訴える反戦綱領を掲げて立候補したが、泡沫候補と見られていた。しかし、ベトナム戦争に反対する世論が高まり、反戦運動が高揚する中、マッカーシーは草の根レベルで運動を行い、広範な支持を得た。ニューハンプシャー州予備選でまったく予想外の高い得票率で2位につけ、ジョンソンを追い詰めたことでマッカーシーは事実上の勝利者としてメディアに扱われ、「マッカーシー旋風」を起こした。その後、ジョンソンは党の指名を求めないと声明した。「マッカーシー旋風」に触発され、ロバート・ケネディ上院議員が立候補を決断した。ケネディはマッカーシー同様にベトナムからの即時撤退を盛り込んだ反戦綱領を掲げ、マッカーシーを支持した層に食い込むと共に、自らの知名度と若年層の間での人気をいかした運動をし、マッカーシーと並び最有力候補に躍り出た。だが、カリフォルニア州予備選で勝利を収め、指名獲得を確実にしたと思われた矢先、カリフォルニア州予備選の勝利演説の場でケネディは暗殺された(ロバート・ケネディ暗殺事件参照)。ケネディ暗殺後、党内の有力者を中心にヒューバート・ハンフリー副大統領が有力視されるようになったが、副大統領としてジョンソン政権の一員であったハンフリーは、次第に党の多数を占めるようになっていった反戦派にとっては不満の残る選択となる。8月26日から29日にかけてイリノイ州シカゴで開かれた党大会には、反戦運動家が多数集結し会場を取り囲んだ。やがて彼らは暴徒化し、リチャード・デイリーシカゴ市長の派遣した警官隊と衝突、流血の惨事となった。こうして最悪の事態となった党大会で、ハンフリーは予備選挙での運動を行わなかったにもかかわらず、マッカーシーやケネディのあとを継いだジョージ・マクガヴァン上院議員を破り、党の候補者に指名された。
選挙戦ジョージ・ウォレス(アメリカ独立党)

他に第三党の候補者として、民主党の前アラバマ州知事で、人種隔離政策を支持する綱領を掲げるジョージ・ウォレスがアメリカ独立党から立候補した。ウォレスは、第二次世界大戦で日本に対する無差別爆撃を指揮し、またベトナムでの無差別爆撃の継続を訴えるカーチス・ルメイ空軍大将を副大統領候補に据え、ベトナムでの強硬な政策を主張した。

選挙戦は当初、ニクソンの圧倒的リードでスタートした。ニクソンは公民権運動や反戦運動が暴徒化、過激化し違法性を強めることに対して、「法と秩序の回復」を訴えた。さらにベトナムからの「名誉ある撤退」を主張し、これを実現する秘密の方策があると語った。またジョンソン政権の国内政策、「偉大な社会」計画を批判した。彼はこれまで民主党を支持してきたが、保守的な南部の有権者をターゲットにし、「南部戦略」を推進した。対するハンフリーは、「偉大な社会」計画の継承を訴え、貧困の撲滅などの実現を主張したが、一方で外交政策、ベトナム政策に関して政権から次第に距離を置き始め、批判的な姿勢に転じた。


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