1964年東京オリンピック
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一方で、オーストラリアアルゼンチンフィリピンインドなどの関係者は、5月案を支持した[6]。こうした議論を経て、最終的に会期は10月10?24日に決定した。

のちの2020年東京オリンピックでは、当初の会期は2020年7月24日(一部競技は22日)?8月9日だったが、1年延期で2021年7月23日(一部競技は21日)?8月8日となった。この開催都市選考では、IOCが立候補都市に対して、会期が7月15日?8月31日におさまるように要求していた。秋はヨーロッパならサッカー、アメリカはメジャーリーグが佳境を迎え、アメリカンフットボールNFLと競合し、テレビの放映枠で人気プロスポーツとの争奪戦を避けるのが目的だった[7]。このことから、夏の暑さを避けるために、秋開催を選択した1964年オリンピックを評価する声がある。しかし、当時と後世では、事情が異なっている点もある。1964年オリンピックの会期検討についての文献では、次のような記述があった。

「高温高湿によって最も困難な競技はバスケット体操レスリングボクシング重量挙げおよびフェンシングの屋内競技である。殊にフェンシングは、危険防止のためにベスト(フェンシングのユニフォーム)を着用し身体を外気から隔離するため、熱の放出(汗)は逆に身体に圧力となってくる。したがってオリンピックともなれば、上記の6種目の室内競技場はすべて完全な冷房をほどこさなければならない。3,000?15,000人を収容した室内競技場を、常に快適な20℃前後に調節することは容易でなく、例え出来たとしても莫大な費用が必要である。」

「第2の理由は夏季は環境衛生上、各種伝染病および中毒の最盛期であって、殊に欧米人は、日本に多い赤痢に対する免疫性が少なく罹病率が大」[8]

その後の日本では、建物の冷房が日常的なものとなり、室内競技場での暑さ問題は解消された。2020年オリンピックでは、暑さ対策は屋外競技に焦点が置かれるようになり、開催準備段階でマラソン競歩会場が札幌市に変更されるなどの対策が実施された。また、その後の日本では、赤痢が減少している。

台風については、前述した伊勢湾台風など、1950?60年代ごろの日本では、死者が1千人を超える台風被害がたびたび発生していたが、その後は天気予報治水対策の発達で、死者は減少傾向である。しかし、秋には台風リスクが存在している点は変わらない。令和元年東日本台風(2019年)では、10月12日に日本へ上陸し、関東地方などで記録的な大雨を降らせ、被害をもたらした。もし東京オリンピックが2019年に開催され、開幕日が1964年オリンピックと同じく10月10日だったならば、会期中に大型台風の直撃を受けていたことになる。1964年オリンピックの会期検討で、10月案について、台風が「万一開催地の東京地区に開会前に襲来した場合、大会全般の運営に大きな支障を来し、アジアにおける世紀の祭典も一夜にして崩れ去ることもあえて誇張ではない」[9]と指摘されていたことは、現代でもあてはまる。
開催に向けての整備五輪橋

この東京オリンピックの開催に向けて、競技用施設から選手村、公共交通機関などのインフラストラクチャーや観戦客を受け入れるためのホテルに至るまで、東京都内のみならず日本各地において種々の建設・整備がなされた。

東京オリンピックの経費は265億3400万円といわれる(組織委経費の99億4600万と大会競技施設関係費の165億8800万円[10] との合計)。経費の大半は、公営競技の収益金や、記念メダルや寄附金付切手、寄附金付たばこオリンピアス」の販売、割増金つき定期預金電電公社発行の電話帳の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた[11]国立代々木競技場第一体育館日本武道館詳細は「1964年東京オリンピックの会場」を参照

国立競技場

当時の陸上競技用トラックはアンツーカーであったため、記録映像でも雨天で開催された際に泥跳ねが見られている。続く1968年大会以降の大会では全天候型トラックが採用されており、アンツーカートラックが使用された最後の夏季大会となっている。


国立代々木競技場

日本武道館

駒沢オリンピック公園

岸記念体育会館

織田フィールド(当時の選手練習場、現在は代々木公園陸上競技場)

三ツ沢公園球技場[注釈 4]

代々木選手村


東海道新幹線の開業

東京モノレールの開業

東京国際空港のターミナルビル増築・滑走路拡張

首都高速道路名神高速道路の整備

環七通り六本木通りの拡幅・整備

ホテルニューオータニ

ホテルオークラ(現・ホテルオークラ東京

東京ヒルトンホテル(現・ザ・キャピトルホテル 東急

東京プリンスホテル

コープオリンピア

黒部ダム 

海底ケーブル                                    

聖火トーチを手に聖火台へと向かう坂井義則詳細は「1964年東京オリンピックの聖火リレー」を参照

聖火は、1964年8月21日にギリシャオリンピアで採火され、アジアを経由して当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄に到着した。沖縄からは鹿児島宮崎北海道に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日のオリンピック開会式にて国立競技場の聖火台に点火された。

聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。
交通規制

東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。

そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。


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