1964年東京オリンピック
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6人が3案ずつ提出した指名コンペにて満場一致で選ばれた[14][18][19]、亀倉(文字は原弘)の大会エンブレムと同じデザインだった。赤と金の配色は豊臣秀吉陣羽織(木瓜桐文緋羅紗陣羽織・大阪城天守閣蔵)から着想を得たともいわれる[20][21]。オリンピック史上初めて五輪の輪の5色の標準色を詳細に決定した[22]

1959年の招致ポスターは栗谷川健一が手がけた通称「富士山」だった[23]
ピクトグラム

まず競技種目ピクトグラム計20種が前年に作られ、1964年に入ってから施設用ピクトグラム計39種の制作が始まった[24]

案内や誘導、競技種目表示においてピクトグラムが採用されたのは東京オリンピックが最初である。外国語(特に公用語のフランス語英語)によるコミュニケーションをとることができる者が少ない日本人と外国人の間を取り持つために開発された。制作にはアートディレクターを務めた勝見勝を中心に粟津潔ほか30名ほどのデザイナーが携わった。

競技種目ピクトグラムを制作したのは、日本デザインセンターの山下芳郎1人である[25][26]。ヨット競技のみは人間を描かず、柔道・ウェイトリフティングの2つは正面図。残りの競技は右向きの1選手を描写した(レスリングのみ2選手が組む横からの図)。サッカー・バレー・バスケ・水球のボールは、各およそ右端中段寄りに配置された。

東京2020オリンピックでは、1964年大会の競技種目ピクトグラムを先人へのリスペクトともに継承・進化させたものと位置づけて[27]、右向きに統一させず、左向きのデザインも混在させた[28]
日本選手団のユニホーム

東京オリンピックにおける日本選手団のユニホームは1964年(昭和39年)2月に国立競技場でコンテストが開催され、そこで選ばれたデザインが後日JOC総会にかけられて承認を受けるかたちで決定された。オリンピック東京大会日本選手団ユニホーム、特に開会式・閉会式で着用された式典用デレゲーションユニホームが、上半身が赤色で下半身が純白のかなり派手な服装であり、50年近く時を経た現在でもオリンピック日本選手団の公式ユニホームと言えばこの「上半身が赤色で、下半身は白色」を思い浮かべる人が多い。日本選手団の制服を松坂屋上野店が受注[29]

開会式・閉会式用ユニホーム(デレゲーションユニホーム)

ヘルシンキオリンピックから選手団公式服装を手がけてきた神田の洋服商であった望月靖之が4年以上掛けてデザインしたもの[30][31][32][33][34]。このユニホームの名称は「1964年オリンピック東京大会日本選手団ブレイザーコート」[31]、通称「式典用ブレザー」と呼ばれ男女共に上着は真紅のマットウーステッド地に金色の三つボタン、そして左胸にはポケットが付いておりその部分に日の丸のワッペンと金糸で五輪が刺繍されていた。下半身は男子は純白のズボン、女子は純白のアコーディオン・ブリーツをスカートにしたもの。帽子は純白地に赤いアクセントの付いたものが採用されている[31]。生地は大同毛織、製作は当時結成されたジャパンスポーツウェアクラブが担当し、全て手縫いで縫製されている[31][35]。靴は男子は純白のエナメル地の紳士靴。女子は白色のローヒール。そして女子だけ純白のショルダーバッグを持つ。石津謙介がデザインしたと言うのが通説となっていたが、研究者の調査によって望月靖之がデザインしたという多数の裏付けが可能な資料の存在が判明した[31][32]


選手村などで着るユニホーム

開会式・閉会式用ユニホームと基本的に同じデザインだがダークカラーが採用されて地味になっている。下半身は男子はグレーのズボン、女子も色はグレーでボックス・ブリーツをスカートにしたもの。靴は男子は黒色の紳士靴。女子も黒色のローヒール。前述の式典用と同様に女子だけ純白のショルダーバッグが採用されている。


トレーニングウェア

大会会場などで試合時以外に着用するトレーニングウェア。男女共に同じデザインで、赤色を基本に方から袖、わきの下からパンツの裾まで、身体の両側の側線に沿うようなラインで白い筋が入っている。そして胸と背中に白色のローマ字で「NIPPON」と書かれている。素材は100%化学繊維で出来ていた。


楽曲

東京オリンピックの行事で使用された楽曲は、オリンピック東京大会組織委員会に設けられた式典運営協議会で以下の5曲が決められた[36]。これらの曲は前年のオリンピックデーで披露された[注釈 5]

オリンピック東京大会ファンファーレ」(作曲:今井光也

「オリンピック東京大会讃歌(A)」(作詞:佐藤春夫、作曲:清水脩

「オリンピック東京大会讃歌(B)」(作詞:西条八十、作曲:小倉朗

オリンピック賛歌」(作詞:コスティス・パロマ、訳詞:野上彰、作曲:スピロ・サマラ、オーケストラ編曲:古関裕而

「オリンピック・マーチ」(作曲:古関裕而)

「ファンファーレ」は広く一般から公募して、海外からの応募作を加えて414編の中から選ばれたもので、当時長野県在住の今井光也が作曲し、日本の伝統的音階を基調とした8小節の東洋的色調に溢れた作品で四部形式で書かれた純トランペットの曲であった[36]

オリンピック東京大会讃歌は、東京大会のみに使われた賛歌で、開会式用の(A)、閉会式用の(B)の2曲があり、聖火が灯された直後と聖火が消えゆく直前に歌われた。

選手団の入場行進曲は、世界各国の著名な行進曲12曲が選ばれて、最初と最後に使用される行進曲として「オリンピック・マーチ」を古関裕而が作曲した。1分間120の行進速度でコーダは「君が代」の旋律で結ばれている。

この他に、開会式冒頭には「オリンピック序曲」(作曲:團伊玖磨)が華やかな雰囲気の中で演奏され、昭和天皇・香淳皇后ロイヤルボックスに着席する直前には電子音楽「オリンピック・カンパノロジー」(作曲:黛敏郎)が荘厳な雰囲気を醸し出していた。

国民の五輪への関心を高めるために、日本放送協会 (NHK)がオリンピック東京大会組織委員会、日本体育協会東京都の後援で製作したのが以下の音頭と愛唱歌で、1963年6月23日に発表されてレコード会社各社から競作で吹き込み発売された[36]

東京五輪音頭」(作詞:宮田隆、作曲:古賀政男、歌:三波春夫橋幸夫・つくば兄弟・神楽坂浮子三橋美智也坂本九北島三郎畠山みどり大木伸夫・司富子)

海をこえて友よきたれ」(作詞:土井一郎、作曲:飯田三郎

これとは別に、日本ビクターが公募して日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都が選定し、日本体育協会、オリンピック東京大会組織委員会、東京都文部省日本放送協会 (NHK)、日本民間放送連盟(民放連)の後援で1962年5月8日に東京都体育館で日本ビクター主催「オリンピックの歌発表会」で発表されたのが以下の2曲である。


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