1964年東京オリンピック
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経費の大半は、公営競技の収益金や、記念メダルや寄附金付切手、寄附金付たばこオリンピアス」の販売、割増金つき定期預金電電公社発行の電話帳の広告収入が充てられたほか、1961年から始まった10円募金で賄われた[11]国立代々木競技場第一体育館日本武道館詳細は「1964年東京オリンピックの会場」を参照

国立競技場

当時の陸上競技用トラックはアンツーカーであったため、記録映像でも雨天で開催された際に泥跳ねが見られている。続く1968年大会以降の大会では全天候型トラックが採用されており、アンツーカートラックが使用された最後の夏季大会となっている。


国立代々木競技場

日本武道館

駒沢オリンピック公園

岸記念体育会館

織田フィールド(当時の選手練習場、現在は代々木公園陸上競技場)

三ツ沢公園球技場[注釈 4]

代々木選手村


東海道新幹線の開業

東京モノレールの開業

東京国際空港のターミナルビル増築・滑走路拡張

首都高速道路名神高速道路の整備

環七通り六本木通りの拡幅・整備

ホテルニューオータニ

ホテルオークラ(現・ホテルオークラ東京

東京ヒルトンホテル(現・ザ・キャピトルホテル 東急

東京プリンスホテル

コープオリンピア

黒部ダム 

海底ケーブル                                    

聖火トーチを手に聖火台へと向かう坂井義則詳細は「1964年東京オリンピックの聖火リレー」を参照

聖火は、1964年8月21日にギリシャオリンピアで採火され、アジアを経由して当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄に到着した。沖縄からは鹿児島宮崎北海道に運ばれて4つのコースで全都道府県を巡り、10月10日のオリンピック開会式にて国立競技場の聖火台に点火された。

聖火の最終ランナーは、1945年(昭和20年)8月6日に広島県三次市で生まれた19歳の陸上選手・坂井義則(当時早稲田大学競走部所属)であった。原爆投下の日に広島市に程近い場所で生を享けた若者が、青空の下、聖火台への階段を駆け上る姿はまさに日本復興の象徴であった。
交通規制

東京オリンピックの開催期間中は千駄ヶ谷代々木などのメイン会場の周辺はもちろんその他の広範囲にわたって大規模な交通規制が行われた。特に、10月10日の開会式では警視庁は1万人の警察官を動員して警備に当たった。開会式会場となった国立競技場の横の神宮外苑も開会式当日は一般に開放されたが、この神宮外苑も収容人数は4万人程であり、チケットのない者は神宮外苑に入ることができなかった。

そして午前10時から開会式終了後までは、この神宮外苑には警察や大会関係などの許可車両以外は一切通行が禁止された。それ以外に「外周制限線」と名付けられた制限区域がもうけられた。これは「新宿4丁目交差点 - 四谷見附交差点 - 溜池交差点 - 西麻布交差点 - 新宿4丁目交差点」を囲む範囲内でおこなわれた極めて大規模な交通規制で、開会式会場の警備の他に国内外のVIPなどの移動をスムーズにするのが目的であった。その他にマラソン、競歩自転車競技、など多くの競技で大規模な交通規制が実施された。
選手団選手村でくつろぐ統一ドイツの選手団

日本選手団は、1位の統一東西ドイツ選手団の374人、2位のアメリカ合衆国の361人に次ぐ3位の355人で、4位はソビエト連邦の332人であった[12]

東西統一ドイツ選手団が金メダルの場合、国旗掲揚が統一東西ドイツ旗で、国歌演奏でなく「曲演奏」と紹介され、交響曲第9番 (ベートーヴェン) が演奏された。

各国選手団の中で最初に日本に乗り込んできたのは韓国の馬術競技の選手団である。5月31日釜山港からアリラン丸に乗り出航。6月3日に東京に到着した。その後世界各国の選手団が空路や海路で乗り込んできた。東京国際空港には各国の選手団を運んできた旅客機が並んだほか、競技用の道具や馬を運んできた貨物機も並んだ。
メダル東京オリンピックのメダル、造幣さいたま博物館にて展示。

東京オリンピックの入賞メダルは大蔵省造幣局の工芸官が原型を作成した。

デザインは金・銀・銅ともに、表面は「勝利者を肩車した男性の群像」、裏面は「勝利の女神」が浮き彫りにされ、「大会名、競技名」を記載してある欄があった。サイズは、金メダル・銀メダル・銅メダル共に直径6cm、厚さは3mm。重さは、金メダル90g、銀メダル82g、銅メダル69g。製造された数は、金メダル300個、銀メダル300個、銅メダル314個。価格は、金メダル12,500円、銀メダル7,500円、銅メダル6,000円。(全て昭和39年当時の価格)と発表されたが、この価格はあくまで造幣局が日本オリンピック委員会に請求した額であり、実際のメダルの製造では1枚のメダルを製作するのにプレス加工を合計25回も繰り返すなど手間のかかったものになっていた。大会後、製造したが余ったメダルは鋳つぶされている。

参加メダルは岡本太郎(表)と田中一光(裏)によるデザインだった[13]
各国のメダル獲得数参加国一覧詳細は「1964年東京オリンピックのメダル受賞数一覧」を参照

順国・地域金銀銅計
1 アメリカ合衆国36262890
2 ソビエト連邦30313596
3 日本(開催国)165829
4 東西統一ドイツ10221850
5 イタリア1010727


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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