1964年自由民主党総裁選挙
選挙制度決選投票制
有権者数党所属衆議院議員:(不明)
党所属参議院議員:(不明)
地方代議員票 :46
合計 :(不明)
選挙前総裁
池田勇人
1964年自由民主党総裁選挙(1964ねんじゆうみんしゅとうそうさいせんきょ)は、1964年(昭和39年)7月10日に行われた日本の自由民主党の党首である総裁の選挙である。 1964年に池田勇人総裁の任期満了を受けて文京公会堂で行われた自由民主党総裁選挙である。三選を期する池田勇人(池田派)が、池田の政権運営に批判的であった佐藤栄作(佐藤派)、藤山愛一郎(藤山派)を破って三選を果たした。 選挙戦前、池田の出馬を阻止しようとする動きが佐藤への禅譲工作とあわせてあったとされるが池田は拒否し、ともに「吉田学校」の優等生といわれていた池田と佐藤の直接対決となった[1]。 現職池田は一回目の投票で過半数を獲得することで党内の安定化を図り、佐藤は藤山派と二・三位連合を結び、決選投票に持ち込もうとするなどといった思惑が重なり、この総裁選にはかつてないほどの"実弾"が飛び交ったといわれている。そのため次のような隠語まで登場した。 結果的には、池田派と佐藤派という保守本流同士の争いの中、党人派の支持を得た池田薄氷の勝利となったが(後述)、これは大方の予想を覆す接戦であった。佐藤陣営は派閥の枠を超えて支持を呼びかけ、大野派や河野派、三木派といった党人派の池田支持グループの中にも支持を確約するものが少なくなかった[2]。ただ、メディアは池田優勢の報道を続け、投票日の前日の朝日新聞は「池田圧勝」を報じた。そのことが「勝ち馬に乗る」議員心理に与えた影響が少なくなかったとされ、佐藤陣営は「新聞にやられた」と悔しがった[3]。 また、佐藤陣営の側から見た敗因として福田赳夫は、@前述の情勢報道、A佐藤派と藤山派の調整不足(元来藤山派内には池田支持・佐藤支持の対立があった上、藤山本人は必ずしも佐藤との連携に積極的ではなく、2位・3位連合が成立したのは総裁選の2日前だった)、B佐藤支持であるはずの石井派の統一が不十分で、池田派に切り崩されたこと、を挙げている[4]。 逆に池田陣営から見て興味深い動きをした一人が田中角栄(当時大蔵大臣)である。田中は佐藤派であったが、池田とは旧知で力を貸していた[5][6]。佐藤派幹部で池田と口が利けるのは田中だけで[7]、池田と佐藤を繋ぐ者は当時すでに議員を引退していた吉田茂を除くと田中しかいなかった[7]。総裁選の間、田中は佐藤派の事務所にはほとんど姿を見せず、1回来たが挨拶しただけで帰ってしまった[5]。佐藤も田中の微妙な立場は知っていて「田中のことは触れるな」と言っていたという[5]。田中が積極的に佐藤側に付いていれば佐藤が勝ったといわれる[5]。 さらに大野伴睦及び大野と親しかった渡邉恒雄の動きがあった[8]。池田にとって大野派の支持は決定的に重要だったが[9]、総裁選を目前に、副総裁だった大野は脳溢血で倒れた(5月29日死去)ため、池田には痛手と報じられた[10]。大野自身は池田と近く佐藤嫌いで知られたが、大野派内部では総裁選で池田を推すか佐藤を推すか、意見が分かれていた。渡邉は池田支持だったため、病床の大野に「あなたは佐藤には騙されたことがあるが、池田には騙されたことがない。今回も池田を支持すべきだ」と話したが、大野はかなり容体が悪く返事がない。渡邊は秘書の山下勇や中川一郎と仕掛け、大野が権力を維持するためには、大野が元気で、しっかり意思表示できるという証明がいると、まず面会謝絶にして、大野が毎日俳句を作っていることにしてそれを記者会見で発表した。俳句は多少心得のあった大野の第3秘書が書いた。
概要
「生一本」(所属している派閥の意向に従うこと)
「ニッカ」(二派閥から金をもらうこと)
「サントリー」(三派閥から金をもらうこと)
「オールドパー」(あちこちの派閥から金をもらい、結局誰に投票したか不明なこと)