1962年のロードレース世界選手権
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1962年の
FIMロードレース世界選手権
前年:1961翌年:1963


1962年のロードレース世界選手権

1962年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第14回大会である。5月にモンジュイック・サーキットで開催されたスペインGPで開幕し、ブエノスアイレスの最終戦アルゼンチンGPまで、全11戦で争われた。
シーズン概要

50ccクラスが新たに加わり、この年からロードレース世界選手権は全5クラスで争われることになった。50ccクラスは元々ヨーロッパ選手権として開催されており、西ドイツイタリアスペインといった国々のモペッドメーカーの活躍で人気のあったクラスだった[1]。また、この年のグランプリは前年と同じ全11戦で争われたがスウェーデンGPはカレンダーから外され、代わりにフィンランドGPが新たに加わった。ただし11戦全てのグランプリでレースが行われたのは125ccクラスのみである。

前年、圧倒的な強さで小排気量クラスを制したホンダはこの年から350ccクラスと50ccクラスにもチャレンジを開始し、350ccクラスでは参戦初年度にして125ccや250ccクラスと同様の成功を収めることに成功した。一方、新設された50ccクラスではホンダに加えて西ドイツのモペッドメーカーであるクライドラー、そして日本のスズキという3メーカーの争いとなり、ホンダの4ストロークはクライドラーやスズキの2ストロークの後塵を拝することになった。前年、前々年と他のマシンと一緒に走るのが精一杯だったスズキは前年に東ドイツから西ドイツへの亡命を果たした元MZのエースライダー、エルンスト・デグナーと契約し、デグナーによってもたらされたノウハウによってスズキのマシンはシーズンオフの間に一気に一線級の速さを獲得したのである[2]。また、クライドラーのマシンは50ccという小さなエンジンの出力を無駄なく使い切るために手と足を使った12段変速という他に類を見ないギアボックスを持っていた[3]。あくまでも4ストロークに拘るホンダは軽量・高出力の2ストローク勢に対抗するためにシーズン中には2気筒の50ccエンジンの開発に着手し、これ以降より高回転・高出力を目指して多気筒化とギアボックスの多段化への道を進むことになる[4]。なお、前年グランプリデビューを飾ったヤマハは、日本国内での新型モデルの商業的な失敗を理由にこの年のグランプリ参戦を見合わせている[5]

ライダーにとってはこの年は陰惨なシーズンでもあった。幸先の良いスタートを切った高橋国光マン島の125ccクラスでクラッシュし、治療に1年を要する程の重傷を負った[6]。そしてその後の350ccクラスのレースでは、前年の125ccクラスチャンピオンのトム・フィリスが事故で死亡した。前年の500ccクラスチャンピオンでフィリスの友人でもあったゲイリー・ホッキングはフィリスの死に強いショックを受けてマン島の後に2輪レースから引退したが、この年の12月に南アフリカのダーバンで4輪のF1マシンでの練習走行中に事故死した[7]。ホンダのジム・レッドマンもホッキングと同様にチームメイトだったフィリスの事故のショックから引退を考えたが、ボブ・マッキンタイヤからの強い慰留を受けて思い留まった。しかしそのマッキンタイヤ自身は250ccクラスでランキング2位につけながら、8月にイギリスで行われたノンタイトルレースでのアクシデントで命を落とした[8]
500ccクラス

プライベーターとしての参戦ながら、ゲイリー・ホッキングマイク・ヘイルウッドが乗るMVアグスタは前年から出場した全てのレースで勝利を収めており、この年の開幕戦となったマン島でもディフェンディングチャンピオンのホッキングが優勝した。しかしホッキングは、直前の350ccクラスのレースで親友でもあったトム・フィリスが自分とのトップ争いの最中の事故で死亡したことにひどくショックを受け、レースが終わったその足でMVアグスタ本社に出向いてアグスタ伯爵にロードレースからの引退を伝えた[7]。ホッキングの引退によって同じ4気筒に乗る者がいなくなったヘイルウッドは敵なしとなり、第2戦のダッチTTからイタリアGPまで5連勝で500ccクラスでは1度目となるタイトルを決めた[9]。この時のヘイルウッドの22歳という年齢は、1983年フレディ・スペンサーが20歳でタイトルを獲るまで500ccクラスチャンピオンの最年少記録だった[10]

この年2位に連続入賞してヘイルウッドに続いたのはマチレスG50を駆るアラン・シェパードだったが、シェパードがGP初優勝を挙げたフィンランドGPにはヘイルウッドは出場していなかった。また、最終戦のアルゼンチンも前年と同じく有力なライダーが出場せず、優勝したベネディクト・カルダレーラをはじめとして地元のライダーが揃ってポイントを獲得したが、レース内容は4位のライダーがトップから5周遅れになるというものだった[10]
350ccクラスレッドマンのホンダRC171

350ccクラスにホンダが初めて投入したマシンは、前年250ccクラスのタイトルを獲った4気筒マシンRC162のボアを拡大して排気量284.5ccとしたマシンRC170だった。前年、いくつかのサーキットでRC162が記録したタイムが350ccのチャンピオンマシンであるMVアグスタにも匹敵するものだったという事実がホンダの勝算だった。開幕戦のマン島ではMVアグスタのマイク・ヘイルウッドゲイリー・ホッキングに1・2フィニッシュを許した上にエースライダーのトム・フィリスを事故で失うという、ホンダにとっては惨憺たる結果に終わったが、続く第2戦のオランダではジム・レッドマンがヘイルウッドに30秒の大差をつけてホンダにクラス初優勝をもたらした。そして第3戦アルスターGP、ホンダが排気量を339.5ccまで拡大した上に各部に改良を加えたRC171を投入するとヘイルウッドのMVアグスタや前年ランキング2位に躍進したフランタ・スタストニィヤワは太刀打ちすることができず、レッドマンが第5戦のイタリアまで4連勝を飾って250ccクラスとのダブルタイトルを決めた[11][12]
250ccクラス


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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