1960年代のカウンターカルチャー
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

AM、FMともに反抗の音楽としてのロックの発信源として注目され、カウンターカルチャー世代の若者向けなプログラムを放送した[43][44]
ライフスタイルの変化むかしの日本の農家。日本で「back to the land(農村回帰)運動」がいまひとつ盛り上がらないのは、やはり封建的な村社会に対する嫌悪感があるからだろう。アメリカのような自由なコミュニティーにはなりにくい。

集団、コミュニティー、そしてインテンショナル・コミュニティーは、この時代よりポピュラーになった[45]

アメリカでは、さまざまなコミュニティーとは土地へともどって外の干渉から自由に生きる農業の試みとしてあらわれた。時代がすすむにつれて、ふつうのコミュニティへの幻滅だけでなく、カウンターカルチャーそのもののある要素に対しても反応した。人々は新しいコミュニティをつくって、賛同する人たちをあつめた。これらの自立的コミュニティの中から、環境保護活動が生まれた。霊的意識、ヨガオカルトの実践、そして潜在能力への関心が生まれ、組織化されたそれまでの宗教観をかえていった。1957年、ワシントンの調査会社ギャラップの調査によると米国の住民の69%が、宗教が影響力を増していると答えた[46]

ジェネレーションギャップ、つまり古い世代と新しい世代のあいだの世界観のギャップはおそらくカウンターカルチャー時代にもっとも大きなものだった[47]。1960年代から1970年代はじめにかけて開いたギャップは、若者のファッションやヘアスタイルの急激な変化から生まれたものだったが、旧世代のひとたちはそれを誤解して嘲笑した[48]。男子のロングヘア、黒人のアフロヘアー、女子の露出ファッション、主流化するサイケデリックな服とヒッピー文化。結局のところ、実用的で快適なカジュアルファッション、つまりTシャツ(しばしば、タイダイ染めや政治主張の文句だったものの)とリーヴァイスのブルージーンズぐらいが新旧世代の共通点となった[49]。世界的にはTシャツ、ブルージーンズ、一般的なカジュアルウェアの人気が高まっていたにもかかわらず、カウンターカルチャーファッションは、1970年代後半のディスコパンクロックの時代到来によって幕を閉じた。
ドラッグ文化60年代、マリファナはカウンターカルチャーの重要なアイコンとなった。大学生はキャンパスでマリファナを流通させた。

60年代、アメリカでは「レクリエーション・ドラッグ」の法的な犯罪化がすすみ、逆に「反=エスタブリッシュメント」に燃えるカウンターカルチャー世代の若者たちを活発化させた。

マリファナの使用が爆発的に増加し、大学キャンパスの学生たちのあいだでは禁止されたドラッグの調達と使用のため、秘密の仕事をおこなう学生が増えた[50]。マリファナを麻薬に分類して、その使用に重大な刑事罰を課したため、それらはアンダーグラウンドへと叩きこまれた。おおくのアメリカ国民は、政府からの懲罰をおそれて、ドラッグ使用のため、大部分が秘密主義の生活を送ろうとした[51][52]
反戦運動

1960年代、大学生(それからほかの活動家)と法執行当局とのあいだの対立が時代の特徴のひとつになった。

おおくの若者が警察への強い不信感を表明しはじめ、警察を侮辱する「PIG-豚」などの言葉がつかわれ、カウンターカルチャーのキーワードとなった。警察への不信感は、抗議デモの警察の暴力への恐怖心からだけでなく、一般的な警察の腐敗、特に証拠の捏造や薬物事件での徹底的なおとり捜査にも原因があった。米国では、カウンターカルチャーと法執行機関のあいだでの社会的緊張が限界に達することもあった。1968年のニューヨーク市でのコロンビア大学の抗議[53]、1968年のシカゴでの民主党全国大会の抗議[54]、ミシガン州アナーバーのジョン・シンクレアの逮捕と投獄[55]、オハイオ州ケントのケント州立大学での国家警備隊代理人の銃撃事件[56]など。イギリスでも同様に警察の不正行為はこの時代に進行した問題だった[57]
ベトナム戦争

ベトナム戦争の支持者と反対者とのあいだの長期的な国の分断は、まちがいなくカウンターカルチャー運動のもっとも重要な要因だった。

反戦の支持は若者のあいだでのみで行われていたという広く受け入れられている意見は神話だけれども[58]、が、しかし、実際のところ、アメリカの主要都市やヨーロッパの国で何百万人もの人々を連帯させ、米国の5つの大会や2つの大統領政権で戦争政策に反対したことは本当だ。
世界各地のカウンターカルチャー
西ヨーロッパ運河の街オランダのアムステルダム。標高が低く、スペイン語ではより直接的な表現で「Paises Bajos(低い国)」と呼ばれていることでも知られている。

西ヨーロッパのロンドンアムステルダムパリローマコペンハーゲン西ベルリンがアメリカのサンフランシスコニューヨークの対抗文化センターのライバルだった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:168 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef