1960年代のカウンターカルチャー
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そして戦後の豊かさとテレビ広告の刺激によってもたらされた消費の拡大は、かえってベビーブーマー世代の若者たちの幻滅を生み、新しい社会行動規範をもたらした[40]
ニュー・シネマ1967年の「俺たちに明日はない」で有名になった銀行強盗の「ボニーとクライド」。映画のテーマになることの少なかった屈折したアンチヒーローがニューシネマではさかんに取りあげられるようになった。

1960年代、段階的にアメリカの映画制作のヘイズ・コード検閲[41]が廃止された。それから同時代的な価値がつくられて、ヨーロッパやアジアの映画の新しい芸術表現、アートシアター、ポルノ、そしてメインストリームの映画制作、流通、および上映の新しい時代が幕をあけた。検閲のおわりはアメリカの映画産業に改革をもたらした。あらたに発見された芸術的自由によって、すべてのジャンルをカバーする才能あるニューウェーブの映画制作者が、ハリウッドの映画スタジオがまだカウンターカルチャーの若者にとってエスタブリッシュメントの一部だとみなされていたにもかかわらず、これまで禁止されていた現実的なテーマを近所の映画館のスクリーンで上映した。代表的なニュー・ハリウッドの映画には「俺たちに明日はない」と「イージー・ライダー」などがあげられる[42]
ニュー・ラジオ

1960年代後半、それまでアメリカではあまり知られていなかったFMラジオが登場。AM、FMともに反抗の音楽としてのロックの発信源として注目され、カウンターカルチャー世代の若者向けなプログラムを放送した[43][44]
ライフスタイルの変化むかしの日本の農家。日本で「back to the land(農村回帰)運動」がいまひとつ盛り上がらないのは、やはり封建的な村社会に対する嫌悪感があるからだろう。アメリカのような自由なコミュニティーにはなりにくい。

集団、コミュニティー、そしてインテンショナル・コミュニティーは、この時代よりポピュラーになった[45]

アメリカでは、さまざまなコミュニティーとは土地へともどって外の干渉から自由に生きる農業の試みとしてあらわれた。時代がすすむにつれて、ふつうのコミュニティへの幻滅だけでなく、カウンターカルチャーそのもののある要素に対しても反応した。人々は新しいコミュニティをつくって、賛同する人たちをあつめた。これらの自立的コミュニティの中から、環境保護活動が生まれた。霊的意識、ヨガオカルトの実践、そして潜在能力への関心が生まれ、組織化されたそれまでの宗教観をかえていった。1957年、ワシントンの調査会社ギャラップの調査によると米国の住民の69%が、宗教が影響力を増していると答えた[46]

ジェネレーションギャップ、つまり古い世代と新しい世代のあいだの世界観のギャップはおそらくカウンターカルチャー時代にもっとも大きなものだった[47]。1960年代から1970年代はじめにかけて開いたギャップは、若者のファッションやヘアスタイルの急激な変化から生まれたものだったが、旧世代のひとたちはそれを誤解して嘲笑した[48]。男子のロングヘア、黒人のアフロヘアー、女子の露出ファッション、主流化するサイケデリックな服とヒッピー文化。結局のところ、実用的で快適なカジュアルファッション、つまりTシャツ(しばしば、タイダイ染めや政治主張の文句だったものの)とリーヴァイスのブルージーンズぐらいが新旧世代の共通点となった[49]。世界的にはTシャツ、ブルージーンズ、一般的なカジュアルウェアの人気が高まっていたにもかかわらず、カウンターカルチャーファッションは、1970年代後半のディスコパンクロックの時代到来によって幕を閉じた。
ドラッグ文化60年代、マリファナはカウンターカルチャーの重要なアイコンとなった。大学生はキャンパスでマリファナを流通させた。

60年代、アメリカでは「レクリエーション・ドラッグ」の法的な犯罪化がすすみ、逆に「反=エスタブリッシュメント」に燃えるカウンターカルチャー世代の若者たちを活発化させた。

マリファナの使用が爆発的に増加し、大学キャンパスの学生たちのあいだでは禁止されたドラッグの調達と使用のため、秘密の仕事をおこなう学生が増えた[50]。マリファナを麻薬に分類して、その使用に重大な刑事罰を課したため、それらはアンダーグラウンドへと叩きこまれた。おおくのアメリカ国民は、政府からの懲罰をおそれて、ドラッグ使用のため、大部分が秘密主義の生活を送ろうとした[51][52]
反戦運動

1960年代、大学生(それからほかの活動家)と法執行当局とのあいだの対立が時代の特徴のひとつになった。

おおくの若者が警察への強い不信感を表明しはじめ、警察を侮辱する「PIG-豚」などの言葉がつかわれ、カウンターカルチャーのキーワードとなった。警察への不信感は、抗議デモの警察の暴力への恐怖心からだけでなく、一般的な警察の腐敗、特に証拠の捏造や薬物事件での徹底的なおとり捜査にも原因があった。米国では、カウンターカルチャーと法執行機関のあいだでの社会的緊張が限界に達することもあった。1968年のニューヨーク市でのコロンビア大学の抗議[53]、1968年のシカゴでの民主党全国大会の抗議[54]、ミシガン州アナーバーのジョン・シンクレアの逮捕と投獄[55]、オハイオ州ケントのケント州立大学での国家警備隊代理人の銃撃事件[56]など。


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