マイノリティーの権利、女性、同性愛者、障害者、そして他の無視された有権者に対処する必要性は、1950年代のオーソドックスな価値から自由になった数多くの若者たちが担った。彼らはより大きな「包括性」と「寛容さ」をもつ社会風景をつくろうと挑戦する。[36][37]新しい、より効果的な避妊薬がつかえるようになったことはセックス革命の重要な基盤だった。望ましくない妊娠の脅威のない「レクリエーション・セックス」の概念は、社会的動態を根本的に変え、伝統的な結婚の範囲外での性生活習慣において男女双方によりおおきな自由を許すようになった[38]。このような環境の変化にともない、1990年代には、婚外子の割合は、白人では5%から25%に、アフリカ系アメリカ人では25%から66%へと増加した[39]。 第二次世界大戦後に生まれた人たちにとって、娯楽と情報の源泉テレビが登場した。そして戦後の豊かさとテレビ広告の刺激によってもたらされた消費の拡大は、かえってベビーブーマー世代の若者たちの幻滅を生み、新しい社会行動規範をもたらした[40]。 1960年代、段階的にアメリカの映画制作のヘイズ・コード検閲[41]が廃止された。それから同時代的な価値がつくられて、ヨーロッパやアジアの映画の新しい芸術表現、アートシアター、ポルノ、そしてメインストリームの映画制作、流通、および上映の新しい時代が幕をあけた。検閲のおわりはアメリカの映画産業に改革をもたらした。あらたに発見された芸術的自由によって、すべてのジャンルをカバーする才能あるニューウェーブの映画制作者が、ハリウッドの映画スタジオがまだカウンターカルチャーの若者にとってエスタブリッシュメントの一部だとみなされていたにもかかわらず、これまで禁止されていた現実的なテーマを近所の映画館のスクリーンで上映した。代表的なニュー・ハリウッドの映画には「俺たちに明日はない」と「イージー・ライダー」などがあげられる[42]。 1960年代後半、それまでアメリカではあまり知られていなかったFMラジオが登場。AM、FMともに反抗の音楽としてのロックの発信源として注目され、カウンターカルチャー世代の若者向けなプログラムを放送した[43][44]。 集団、コミュニティー、そしてインテンショナル・コミュニティーは、この時代よりポピュラーになった[45]。 アメリカでは、さまざまなコミュニティーとは土地へともどって外の干渉から自由に生きる農業の試みとしてあらわれた。時代がすすむにつれて、ふつうのコミュニティへの幻滅だけでなく、カウンターカルチャーそのもののある要素に対しても反応した。人々は新しいコミュニティをつくって、賛同する人たちをあつめた。これらの自立的コミュニティの中から、環境保護活動が生まれた。霊的意識、ヨガやオカルトの実践、そして潜在能力への関心が生まれ、組織化されたそれまでの宗教観をかえていった。1957年、ワシントンの調査会社ギャラップの調査によると米国の住民の69%が、宗教が影響力を増していると答えた[46]。 ジェネレーションギャップ、つまり古い世代と新しい世代のあいだの世界観のギャップはおそらくカウンターカルチャー時代にもっとも大きなものだった[47]。1960年代から1970年代はじめにかけて開いたギャップは、若者のファッションやヘアスタイルの急激な変化から生まれたものだったが、旧世代のひとたちはそれを誤解して嘲笑した[48]。男子のロングヘア、黒人のアフロヘアー、女子の露出ファッション、主流化するサイケデリックな服とヒッピー文化。結局のところ、実用的で快適なカジュアルファッション、つまりTシャツ(しばしば、タイダイ染めや政治主張の文句だったものの)とリーヴァイスのブルージーンズぐらいが新旧世代の共通点となった[49]。
カウンターカルチャーのメディア受容
テレビ
ニュー・シネマ1967年の「俺たちに明日はない」で有名になった銀行強盗の「ボニーとクライド」。映画のテーマになることの少なかった屈折したアンチヒーローがニューシネマではさかんに取りあげられるようになった。
ニュー・ラジオ
ライフスタイルの変化むかしの日本の農家。日本で「back to the land(農村回帰)運動」がいまひとつ盛り上がらないのは、やはり封建的な村社会に対する嫌悪感があるからだろう。アメリカのような自由なコミュニティーにはなりにくい。