1960年代のカウンターカルチャー
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アイゼンハワー大統領のまやかしは、1960年のU-2撃墜事件の真実に関するもので、政府は見えすいた嘘をつき、その時代のひとびとのあいだの権威に対する不信はますます高まっていった[16][17][18]

1963年の「部分的核実験禁止条約」(PTBT)は、政治的および軍事的なラインにそったアメリカのエスタブリッシュメントの意見をわけた[19][20][21]東南アジア条約機構(SEATO)、特にベトナムについての条約上の義務に関する政治的意見の不一致や他の共産主義勢力への対抗方法についての議論もまたエスタブリッシュメントのなかで意見の一致をみなかった[22][23][24]。イギリスでは、売春婦クリスティーン・キーラーによる「プロヒューモ事件」がおこり、当時のマクミラン政権への幻滅がひろがって、リベラルな行動主義への刺激になった[25]

1962年10月、世界を核戦争の瀬戸際へと追いこんだキューバ危機は、その大部分が二枚舌のスピーチとソ連の一連の行動によって助長された[26][27]。また、 1963年11月のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺とその事件に関する説明は、若者をふくむ一般のひとたちの政府への信頼をさらに低下させるものだった[28][29][30]
社会問題、そして行動アポロ17号からの地球の写真。この時代、宇宙開発がはじまり、地球そのものがはじめて客観視できるようになったというのも人々にじかの意識改革をせまった要因のひとつだろう。

くわえて、アメリカにはあまたの社会問題が横たわっていた。それらは、よりカウンターカルチャー運動の成長を促すものだった。

白人の国家支配による南部黒人たちの長期にわたる公民権の剥奪、雇用、住宅、公衆へのアクセスなどの人種差別の継続、それにもとづく憲法上の市民権の違法性を解決しようとする非暴力的なムーブメントが、北でも南でもおこった。大学のキャンパスでは、学生活動家が基本的な憲法上の権利、とくに言論と集会の自由の権利をもとめた[31]。カウンターカルチャーの活動家は貧困層の窮状を認識し、地域のオーガナイザーたちはとくに南部や米国の都心部で貧困対策プログラムへの資金提供のためにたたかった[32][33]。環境保護活動は、進行する工業化から生じる汚染、化学物質をふくんだ農薬のあやまった使用の急速な一般化への理解をふかめることから発展していった[34]。生物学者レイチェル・カーソンのようなひとたちは、おおくの国のエスタブリッシュメントたちからの抵抗にもかかわらず、グローバルなひとたちのあいだに「地球のこわれやすさ」に関する新しい意識を育む重要な役割を果たした[35]

マイノリティーの権利、女性同性愛者障害者、そして他の無視された有権者に対処する必要性は、1950年代のオーソドックスな価値から自由になった数多くの若者たちが担った。彼らはより大きな「包括性」と「寛容さ」をもつ社会風景をつくろうと挑戦する。[36][37]新しい、より効果的な避妊薬がつかえるようになったことはセックス革命の重要な基盤だった。望ましくない妊娠の脅威のない「レクリエーション・セックス」の概念は、社会的動態を根本的に変え、伝統的な結婚の範囲外での性生活習慣において男女双方によりおおきな自由を許すようになった[38]。このような環境の変化にともない、1990年代には、婚外子の割合は、白人では5%から25%に、アフリカ系アメリカ人では25%から66%へと増加した[39]
カウンターカルチャーのメディア受容
テレビ

第二次世界大戦後に生まれた人たちにとって、娯楽と情報の源泉テレビが登場した。そして戦後の豊かさとテレビ広告の刺激によってもたらされた消費の拡大は、かえってベビーブーマー世代の若者たちの幻滅を生み、新しい社会行動規範をもたらした[40]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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