60年代、アメリカでは「レクリエーション・ドラッグ」の法的な犯罪化がすすみ、逆に「反=エスタブリッシュメント」に燃えるカウンターカルチャー世代の若者たちを活発化させた。
マリファナの使用が爆発的に増加し、大学キャンパスの学生たちのあいだでは禁止されたドラッグの調達と使用のため、秘密の仕事をおこなう学生が増えた[50]。マリファナを麻薬に分類して、その使用に重大な刑事罰を課したため、それらはアンダーグラウンドへと叩きこまれた。おおくのアメリカ国民は、政府からの懲罰をおそれて、ドラッグ使用のため、大部分が秘密主義の生活を送ろうとした[51][52]。 1960年代、大学生(それからほかの活動家)と法執行当局とのあいだの対立が時代の特徴のひとつになった。 おおくの若者が警察への強い不信感を表明しはじめ、警察を侮辱する「PIG-豚」などの言葉がつかわれ、カウンターカルチャーのキーワードとなった。警察への不信感は、抗議デモの警察の暴力への恐怖心からだけでなく、一般的な警察の腐敗、特に証拠の捏造や薬物事件での徹底的なおとり捜査にも原因があった。米国では、カウンターカルチャーと法執行機関のあいだでの社会的緊張が限界に達することもあった。1968年のニューヨーク市でのコロンビア大学の抗議[53]、1968年のシカゴでの民主党全国大会の抗議[54]、ミシガン州アナーバーのジョン・シンクレアの逮捕と投獄[55]、オハイオ州ケントのケント州立大学での国家警備隊代理人の銃撃事件[56]など。イギリスでも同様に警察の不正行為はこの時代に進行した問題だった[57]。 ベトナム戦争の支持者と反対者とのあいだの長期的な国の分断は、まちがいなくカウンターカルチャー運動のもっとも重要な要因だった。 反戦の支持は若者のあいだでのみで行われていたという広く受け入れられている意見は神話だけれども[58]、が、しかし、実際のところ、アメリカの主要都市やヨーロッパの国で何百万人もの人々を連帯させ、米国の5つの大会や2つの大統領政権で戦争政策に反対したことは本当だ。 西ヨーロッパのロンドン、アムステルダム、パリ、ローマ、コペンハーゲン、西ベルリンがアメリカのサンフランシスコとニューヨークの対抗文化センターのライバルだった。 イギリスのアンダーグラウンドは、米国のサブカルチャー、ヒッピーに連動し、雑誌や新聞、ファッション、音楽グループ、クラブなどを生みだした。アンダーグラウンドの人物バリー・マイルズ氏はこう述べる[59]。 「アングラは、反=エスタブで反抗的で反戦的、さらにロケンロ―な個人のためのニックネームの共同体であり、そのおおくは同じようにドラッグに魅かれてた。彼らは、平和を、より幅広い意識を、愛とセックスの実験を、社会のラットレースよりも価値のあるものとして探したんだ。ん、だけど、そのあいだ、古い考えの中産階級は依然として他の人に普通の価値を課す権利があると感じてたんだ。それで戦いになったのさ」 オランダの、プロボは「非暴力的な「餌」をつかって、当局からの暴力的な反応を誘発すること」に焦点をあてたカウンターカルチャー運動をおこした[60]。 フランスでは、1968年5月パリで全般的なストライキを現状に不満をもった学生たちが率いて政権を追いつめた(五月革命)。 「コミューン1」または「K1」は西ドイツのコミューンであり、風刺と挑発のあいだのビザールなステージイベントで知られていた。このイベントはその他の左派グループにインスピレーションを与えた。1968年の夏の終わり、コミューンは方向性をかえるため、フランクフルトにある荒廃した工場へと移動した。第二段階の「コミューン1」は、セックス、ドラッグ、ミュージックによって特徴づけられた。すぐにコミューンは世界各地から訪問をうけ、ジミ・ヘンドリックスを含む来場者が訪れた[61][62]。
反戦運動
ベトナム戦争
世界各地のカウンターカルチャー
西ヨーロッパ運河の街オランダのアムステルダム。標高が低く、スペイン語ではより直接的な表現で「Paises Bajos