1960年ベトナム共和国の軍事クーデター未遂
[Wikipedia|▼Menu]
或るアメリカの軍事顧問はチを「タフで無遠慮で恐怖を知らないが、無口な人物だ」を表現した[5]。チが彼の自由な選択によってクーデターに参加していたのか否かについて論争がある[9]。幾つかの資料によると、チはそれでもジエム大統領の賞賛者であり、陰謀の詳細は知らされないまま、ドンやその支持者達によって銃口を突き付けられて、最後の瞬間にクーデターに無理矢理参加させられたらしい。この話に従えば、チの空挺部隊は彼の知識無しに最初にクーデターの立場に動いたという事になる[10]

クーデターの何ヶ月も前に、ドンは広く体制のブレーンとして見られ、改革と軍の非政治化を求める為に、ジエムの弟で政権の顧問をしていたゴ・ディン・ヌーとその妻マダム・ヌーと面会していた。ドンは面会は順調に進んでヌーが改革を確定させるだろうと期待したと述べた[3]。しかしながら、数週間後にドンとその協力者達は異なる司令部へと移され、物理的に分離させられた[3]。ジエムやヌーが計画のバランスを崩そうとするのを恐れて、クーデター派は計画していた仕事を進めて、10月6日に実行する事に決めた。しかしながら、クーデターの延期を強制する為に、彼らはその後にコントゥム近くで第2軍団 (南ベトナム)(英語版)に配置されて中部高原で共産主義者を相手に戦う様に予定を設定された[3]。歴史家ジョージ・マックターナン・ケイヒン(英語版)によると、クーデターが始まった時に、ドンには司令官が居なかったという[9]

アメリカ人達は気が付き始め、8月に軍の将校兵団で政治的絶滅について報告書が増えて恐れ始めた。8月末に出たアメリカ国務省が準備した諜報報告書は、「内部の安全を改悪する事、無能な将校を昇進させる事、そして陸軍の作戦に対するジエム大統領の直接的妨害、彼の政治的偏愛、当局による不適切な派遣団、そしてカンラオ党の影響がある」と指摘した[11]。ジエムが大統領に就任して権力を掌握して以来高級官僚の間でのジエム大統領に対する不満は頂点に達していて、官僚達は必要ならクーデターを通してでも指導者が替わる事を望んでいたとも指摘されている。ヌーと彼の妻マダム・ヌーが行政官僚の間で最も軽蔑されていた[11]。報告書はクーデターが起きた場合、その目的は恐らくヌーと彼の妻を権力から排除し、ジエム大統領が望む様に大統領の権限を縮小させる形で国家を指導する事を許すだろうと予想した[9]。諜報部門の予想は的中した[9]

アメリカ合衆国大使エルブリッジ・ダーブロウ(英語版)は1957年からこの職を務めていたが、ジエムに対して政治改革をする様にと圧力を掛けるという内容の長い記録を持っていた。大使は南ベトナムでの政治的問題はジエムの狭量的態度にあると感じ、ジエムがより広範囲な社会を統治する様になって、汚職、仲間贔屓、乱暴な言葉遣いの公務員を排除し、土地改革を実行すれば、共産主義者の暴動はより簡単に鎮圧されると考えた。しかしながら、南ベトナムの大統領は政治的問題を解決し反ジエム派を黙らせる為の手段として権威主義を見ており、ダーブロウ大使とアメリカ軍顧問団(英語版)との間で頻繁に繰り返されていた論争に至り、南ベトナムに駐留していたアメリカ軍の上層部もこれに同意した。ダーブロウ大使は、ジエムの反対派に対する高圧的な戦術はより多くの異論を唱える人々を作り出し、共産主義者に機会を与えるのみだったと頻繁にワシントンD.C.に報告した[12]

この頃、ダーブロウ大使は長期間に渡って南ベトナムをより発展させる為に大衆的支持を集める必要性を説いて、ジエムにヌーとその妻を政府から遠ざけてはどうかと提案し始めた。彼の重要な提案にはヌーを外国大使として他の国に送る事や「カンラオ党の本質を改める」事が含まれていた[11]。ヌーとカンラオ党はジエムの権力の中心的手段であったので、ジエムはダーブロウ大使の提案に従わなかった[11]

9月16日に、もう一つの収穫の無いジエムとの会談の後、ダーブロウ大使はワシントンD.C.に「もしこの国でのジエムの立場が悪くなり続ければ、アメリカ合衆国政府は我々の目的を達成させる為に他の行動や指導者を立てる事を考慮する必要に迫られるかも知れない」と報告した[11]国務省による別の報告書では、「ジエムが意地を張り続け、反ジエム派がアメリカ合衆国政府はクーデターに冷淡ではなく、米越関係は深刻な損害を被らないと感じるならば」、クーデターの可能性は更に高くなると結論付けられた[11]。ジエムに不満を持つ人々が同じ結論に至る事が分かったので、アメリカ合衆国政府は彼らがジエム大統領を倒しても気にしないだろうと記述された[11]

クーデターはベトナム国民党と大ベトナム民族党の民間人と将校の双方による助けで組織された[4]。ドンは機甲連隊、海兵隊部隊と3つの落下傘大隊の協力を得た[2][4]。海兵隊大隊はファン・ヴァン・リュー中佐によって動かされた[9]。作戦は11月11日午前5時に開始される予定になった[2][4]。しかし、空挺師団の兵士は彼らの将校が何を蓄えてあるのかを知らなかった。彼らはベトコンを攻撃する為に農村地帯に向かっていると伝えられていた[13]。計画を実行している途中に、将校達は大統領護衛(英語版)は大統領宮殿を守る為の部隊であり、ジエムに対しては反乱を起こすだろうと主張した[13]
クーデター

ピューリッツァー賞受賞作家スタンリー・カーノフ(英語版)著Vietnam: A Historyによると、クーデターは非効果的に実行されたという[2]。反乱軍がタンソンヌット空軍基地(英語版)にあった共同参謀本部の司令部を接収したが[4]、彼らはサイゴンへの道を塞ぐという教科書通りの戦術に従う事に失敗した。同様に宮殿への電話回線を遮断する事にも失敗し、その事がジエムに体制支持派の救援を呼ぶ事を許した[2]

落下傘兵はサイゴンの主な大通りを独立宮殿に向かって降ろされた[5]。最初に、反乱軍はジエムが要求に応じると信じて、攻撃せずに構内を取り囲んだ。ドンはジエムに圧力を掛ける為にアメリカのエルブリッジ・ダーブロウ(英語版)大使を呼び出そうと試みた。ダーブロウ大使はジエムを根気強く批判していたが、「我々は政権が崩壊するまでジエムを支える」と述べ、ジエムを支えるというアメリカ合衆国政府の立場を維持した[2]。ダーブロウ大使は後に、ジエムの補佐官が彼を呼び出して反乱軍に降伏するか、宮殿への榴弾砲攻撃に直面するかのどちらかだと主張していたジエムの補佐官からの電話を思い出した。ダーブロウ大使はこれを拒否し、攻撃は一切行われなかった。その結果、彼は補佐官が無理矢理電話させられていた事を学んだ[14]

反乱軍の兵士の殆どが反乱からジエム大統領を守る為に攻撃しようとしていると大統領護衛によって教えられていた。全ての階級の中でも一人か二人の将校のみが本当の状況を知っていた[4]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef