スマザーズ
フロリダ州(出身州)
ディサール 共和党の指名候補者 1951年のアメリカ合衆国憲法修正第22条の批准完了によって、アイゼンハワー大統領は再度大統領職を求めて出馬することができなかった。彼は1952年と1956年の2度選出されていた。1960年時点でもその人気は高く、歴史家の大半は、もし3期目を求めれば、ケネディを含み主要な民主党候補者の誰でも破っていただろうと信じている。しかし、アイゼンハワーの健康問題と引退の願望があり、もし可能だったとしても再出馬はありそうに無かった。 1959年、副大統領のリチャード・ニクソンは、共和党中道左派の指導者でニューヨーク州知事のネルソン・ロックフェラーから、あたかも共和党の指名争いで重大な挑戦を受けたような形になった。しかし、ロックフェラーは全国遊説を行った後で共和党の大半がニクソンを支持していることが分かったので、大統領候補にはならないと表明した。ロックフェラーの撤退後、ニクソンは共和党の指名については意味のある反対に直面しなかった。シカゴで開催された1960年共和党全国大会 1960年民主党全国大会
オハイオ州(出身州)
共和党の指名
バリー・ゴールドウォーター、アリゾナ州選出アメリカ合衆国上院議員
リチャード・ニクソン、副大統領、カリフォルニア州出身
ネルソン・ロックフェラー、ニューヨーク州知事
民主党全国大会
スティーブンソンは多くの左派代議員、特にカリフォルニア州で人気があったが、1952年と1956年の2回大敗しており、党指導者達は勝てるチャンスのある「新鮮な顔」を探すことになった。ケネディが最初の指名投票で指名を勝ち取った。続いて、多くの者を驚かせたことに、ジョンソンがケネディから副大統領候補として出馬を求められた。今日までジョンソン指名の詳細について多くの議論があり、なぜそれが提案されたか、またなぜジョンソンが受けたかである。歴史家の中には、実際にはケネディがその副大統領候補として他の候補者(例えばスチュアート・サイミントンあるいはヘンリー・M・ジャクソン)を望んだが、強力な上院院内総務に対する礼儀としてのみ先ずジョンソンの指名を提案したと推測する者がいる。この考え方に従えば、ケネディはジョンソンが民主党2番目の切符を手に入れることを受け入れたときに驚かされたことになる。もう一つの関連する逸話に拠れば、ジョンソンが提案を受け入れた後で、ロバート・ケネディがジョンソンが泊まるホテルのスイートルームを訪ね、ジョンソンが副大統領候補指名を受けないよう説得したということである。ジョンソンは「ケネディの弟分」が臆面もなく出馬しないように求めてきたことで気分を害した。
ロバート・ケネディとのぶっきらぼうな対面に対する反応として、ジョンソンはケネディに電話を掛けて、副大統領の指名候補は自分だと確認した。ケネディは明確にその副大統領候補としてジョンソンを望んでいると伝えた。ジョンソンとロバート・ケネディが激しい個人的また政治的確執を始めることになったこの経験で敵意を抱くようになり、1960年代の民主党には重い意味合いを持たせることになった。ジョンソンの指名についてロバート・ケネディが払った留保にも拘わらず、その指名は兄のケネディにとって大きな力になることが分かった。ジョンソンはケネディのために活発な選挙運動を行い、ケネディに対して懐疑的な南部州の幾つか、特にジョンソンの出身州であるテキサス州を民主党が制する主因になった。
また、ケネディの妹のパトリシアの夫で、ハリウッド俳優のピーター・ローフォードと、ローフォードの友人でマフィアとの関係も深いフランク・シナトラやサミー・デイヴィス・ジュニアなどが、カリフォルニア州やネバダ州、ハワイ州などで行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ケネディの予備選勝利に向けて協力を行った[4]。さらに1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、ジュディ・ガーランドやトニー・カーチスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱したばかりか、会場をまわり代議員へのケネディへの支援への説得を行った[5]。
7月13日、党の指名候補投票でジョン・F・ケネディは指名を獲得する。最終日である7月15日にはカリフォルニア州ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで指名受諾演説を行い、この時にアメリカが抱える戦争、偏見、貧困といった諸問題に立ち向かう意味での「ニューフロンティア」を提示した。
大統領候補指名投票の結果(1960年民主党)ジョン・F・ケネディ806 ケネディもニクソンも選挙運動を通じて大勢で熱狂的な聴衆を惹き付けた[6]。1960年8月、世論調査の大半ではニクソン副大統領がケネディをわずかながらリードしていた。多くの政治評論家はニクソンが勝つものと見ていた。しかし、ニクソンは秋の選挙運動中不運に見舞われた。長い間ニクソンについては両面感情を持っていたアイゼンハワーが8月にテレビ中継された記者会見を開き、そこである記者がニクソンはアイゼンハワーの内閣の中で貴重な部内者で助言者であったというニクソンの主張に言及した。その記者はアイゼンハワーにニクソンの助言や提案で心に留めたものが有るかを尋ねた。アイゼンハワーは、「1週間の猶予をくれれば1つぐらい思い出すかも知れない」という軽口で応えた。アイゼンハワーもニクソンも後に、アイクは単にその記者に冗談を言ったのだと主張したが、それまでケネディよりも大きな決断の経験があると主張してきたことを弱めたのでニクソンには打撃となった。このことは、民主党がアイゼンハワーの言葉をテレビ宣伝に使ってニクソン批判のように仕向けたので、さらに打撃を大きくした。 共和党全国大会でニクソンは50州全てを回ると約束した。この約束が徒になった。ニクソンは8月にノースカロライナ州で遊説中に車のドアで膝を負傷した。この膝が感染症を起こし、ニクソンは2週間遊説を中断して、感染した膝に抗生物質を注入する治療をした。ニクソンがウォルター・リード病院を退院したとき、全州を訪れると約束したことを放棄するのを拒んだ。かくして貴重な時間を使って勝つ見込みの無い州や、選挙人の数が少なく勝利にあまり影響しない州まで大車輪で回った。例えば、その50州全てを回る動きの中でニクソンは投票日前の貴重な週末をアラスカ州での遊説で過ごした。アラスカ州は選挙人票が3票しか無く、しかも共和党の強い地盤であり、この期間にケネディは大票田であるニュージャージー州、オハイオ州、ミシガン州およびペンシルベニア州を回っていた。 選挙運動の重要な転換点は4回行われたケネディとニクソンの討論だった。これらは初めてテレビ中継された大統領候補同士の討論だった[7]。ニクソンは最初の討論が開始される数時間前まで遊説を続けることに固執した。入院の原因となった怪我からも完全に回復して居らず、青ざめて病気のようであり、体重が落ち疲れて見えた。最初の討論のとき、メーキャップは男らしさには必要ないと拒み、その結果当時の白黒テレビでは無精髭が目立った。最初の討論でニクソンのテレビ映りがみすぼらしかったことは、ニクソンの母が討論の直後に彼は病気ではないかと電話してきた事実からも覗える。対照的にケネディは、ローフォードらのアドバイスによりメーキャップを念入りに行ったほか、最初の討論の前に休養を取り、日焼けして、自信に溢れ、討論の間もリラックスしていた。推計8,000万人が最初の討論を視聴した。テレビで討論を見た多くの人々がケネディが勝ったと思い、ラジオを聞いた人々(聴取者は少数)はニクソンが勝ったと思った。その後の世論調査では、わずかにニクソンに負けていたケネディが今度はわずかなリードを奪った。残りの3回の討論では、ニクソンが減っていた体重を戻し、テレビ用のメーキャップを施し、最初に登場したときよりも力強く見えた。
リンドン・ジョンソン409
スチュアート・サイミントン86
アドレー・スティーブンソン79.5
ロバート・B・マイナー43
ヒューバート・H・ハンフリー41
ジョージ・A・スマザーズ30
ロス・バーネット23
ハーシェル・ラブレス2
パット・ブラウン1
オーバル・フォーバス1
アルバート・ロゼリーニ1
一般選挙
秋の選挙運動