1960年の映画
7月27日 - 第1回東宝映画祭がベネズエラのカラカスで1週間開催[7]。
8月3日 - 東宝直営館であるロサンゼルス・ラブレア劇場がオープン[7]。オープニング作品は稲垣浩監督『無法松の一生』、清水雅社長、俳優・三船敏郎、女優・水野久美らが出席[7]。
9月
第21回ベニス国際映画祭で小林正樹監督『人間の條件 1部・2部』がサン・ジョルジョ賞とパシネッティ賞受賞[9][8]。
アイルランドのコーク国際映画祭(英語版)で五所平之助監督『わが愛』[11]が作品賞受賞[9]。
9月6日 - イタリア、ルキノ・ヴィスコンティ監督『若者のすべて』、第21回ヴェネツィア国際映画祭(英語版)で公開[1][12]。
11月3日 - 第2回東宝映画祭が香港で開催(9日まで)[13]。取締役・川喜多長政と藤本真澄、脚本家・井手俊郎、作家・石原慎太郎、女優・司葉子と北あけみなどが出席[13]。
月日不詳
フランス、ルネ・クレール監督、映画人で初めてアカデミー・フランセーズ会員となる[1][14]。
日本
1月
東映、アイドホール(英語版)試験を開始する[9]。
1月3日 - 『任侠中仙道』 / 『ひばり十八番 弁天小僧』公開、ヒット[15]。
1月15日 - 第10回ブルーリボン賞で、月形龍之介が大衆賞、足立怜二郎と東映剣会が技術賞、『警視庁物語』のスタッフ・キャストが特別賞受賞[15]。
1月21日 - イーストマン・カラー・フィルム値下げ、アグファ・カラー・フィルムも同調値下げ[16]。2月10日、国産カラー・フィルムも値下げ[16]。
2月
2月29日 - 仏政府、60年前に撮影した実写フィルム3巻(日本最古のフィルム)を国立近代美術館に寄贈[16]。
3月
3月1日 - 第二東映が2本立てによる映画製作配給を開始する[17][9][8]。日本映画は6社7系統になった[8]。
3月13日 - 東映スターの波多伸二(22歳)、ロケ中のオートバイ事故で死去[18][9]。
4月
新東宝撮影所、第1ステージ・第2ステージほか全焼[9]。
大蔵省、洋画輸入の割当てを洋画配給業者のみに認め、洋画輸入業者を排除する政策を実施[9]。
4月1日 - テアトル東京で70mm映画『ベン・ハー』の大ロングランが開始[5]。
4月5日 - 第7回アジア映画祭が東京で開幕(9日まで)[9][5]。
4月17日 - 映画監督アルフレッド・ヒッチコック、来日[7]。
4月26日 - 東京地検、外国為替管理法違反で松竹を起訴[16]。
4月30日 - 無配当となった責任をとり、松竹の社長が城戸四郎から大谷博に交替する[19][16]。
5月
5月9日 - 東映、専門館感謝パーティーとファンのための「東映友の会」発会式を京都・二条城で開催[20]。12月末、東映専門館は邦画上映館の半数近く(2854館)を占める状況[20]。
6月
大島渚監督『青春残酷物語』が封切られ、松竹ヌーヴェルヴァーグが始まる[9]。松竹ヌーヴェルヴァーグ、大島渚、吉田喜重、篠田正浩ら若手監督活躍[1]。
6月2日 - 大蔵省、米国メジャー日本支社に対し、利潤の送金を許可[9][16]。
6月4日 - 東京地区洋画興行、東宝と松竹の両ロードショー系統の一般封切館の番組編成を東宝が担当[16]。
6月20日 - 日本映画5社が、経営状態が悪化した新東宝から旧作映画25本のテレビ放映権を買い上げた[8][7]。
7月
全国映画館数が史上最高7,663館[16]。
7月1日 - 東芝から国産初のカラーテレビが発売される[21][10]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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