1959年のロードレース世界選手権
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1959年の
FIMロードレース世界選手権
前年:1958翌年:1960

1959年のロードレース世界選手権は、FIMロードレース世界選手権の第11回大会である。5月にクレルモン=フェランで開催されたフランスGPで開幕し、モンツァの最終戦イタリアGPまで、全8戦で争われた。
シーズン概要

1955年以来途絶えていたフランスGPが新たに造られたクレルモン=フェラン・サーキットに舞台を移して復活し、この年の世界選手権は全8戦となった。ただし、8戦全ての大会で開催されたクラスは無い。

4クラスのタイトルをMVアグスタに乗る2人のライダーだけで独占した。350ccと500ccクラスに至っては、シーズンを通してレースに優勝したのはジョン・サーティースただ一人だった。ノートンワークス活動を撤退した後もプライベーター用の市販マシンの開発を続けていたが、単気筒のマンクスではMVアグスタの4気筒には太刀打ちできなかった[1]。MVアグスタ以外で唯一500ccクラスへのワークス参戦を続けていたBMWは、結局1度も勝利することなくこの年を最後にグランプリを去った。一方、125ccと250ccクラスではカルロ・ウビアリタルクィニオ・プロヴィーニというMVアグスタの2人がしのぎを削り、結果は両クラスともウビアリが制したが個性の強い2人の衝突は避けられず、シーズン終了後にはプロヴィーニがMVアグスタを離れてモト・モリーニに移籍することになった[2]

前年、印象的な走りを見せたMZ2ストロークには東ドイツ以外のライダーたちも大きな関心を示し、前年からのレギュラーであるホルスト・フュグナーとエルンスト・デグナーに加えてゲイリー・ホッキングルイジ・タベリといった実力のあるライダーがシーズン中にMZに乗り換え、度々上位に食い込んだ。中でもホッキングはMZを得ると同時に連勝し、それを見たMVアグスタはホッキングと翌年からの契約を結んでいる[3][2]ホンダRC142(マン島の谷口尚己のマシンを復元した物)

後のグランプリの歴史にとって重要なこの年の出来事が、日本のホンダマン島初挑戦(125ccクラス)である。日本国内では浅間火山レースや富士登山レースのようなダートコースでのレースしかなく舗装路でのレース経験がほとんどないホンダだったが、ヨーロッパでも類を見ない125cc2気筒DOHC4バルブのエンジンを積んだマシン(船便で運んだマシンの2バルブエンジンのヘッドを、レース直前に手荷物で持ち込んだ4バルブヘッドに急遽交換したものだった)で社内ライダーの谷口尚己が6位入賞し、初グランプリで1ポイントを獲得した。レースの1ヵ月前から現地に乗り込んで練習を重ねた谷口を含む4人の日本人ライダーは全員完走してホンダはチーム賞を獲得し、ヨーロッパのメディアはそのエンジンを「まるで腕時計のように精巧で、ヨーロッパのメーカーのコピーではない独創的な設計だ」と賞賛した[4][5]。この年ホンダが走ったのはマン島の1戦のみだったが、ホンダのマシンに可能性を感じた一部のプライベーターは早くも翌シーズンのホンダの動向を気にし始めていた[6]
500ccクラス

MVアグスタのワン・ツーフィニッシュで開幕すると、ジョン・サーティースは第4戦オランダまで4連勝を飾って最短でチャンピオンを決め、タイトル決定後もそのまま1度も負けることなくシーズンを終えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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