1957年のメジャーリーグベースボール
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1957年のできごとを記す。

1957年4月15日に開幕し10月10日に全日程を終え、ナショナルリーグミルウォーキー・ブレーブスが9年ぶり11度目のリーグ優勝で、アメリカンリーグニューヨーク・ヤンキースが3年連続23度目のリーグ優勝であった。

ワールドシリーズはミルウォーキー・ブレーブスが4勝3敗でニューヨーク・ヤンキースを破り、1914年以来43年ぶり2度目のシリーズ制覇となった。

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できごと

ナショナルリーグミルウォーキー・ブレーブスが、前年首位打者のハンク・アーロンが打率.322・本塁打44本・打点132で本塁打王と打点王の二冠に輝きリーグMVPとなり、そしてシーズン途中にジャイアンツから移籍してきたレッド・ショーエンディーンスト(後のカージナルス監督)二塁手が最多安打200本で、エディ・マシューズが打率.292・本塁打32本・打点92を打ち、投手陣ではウォーレン・スパーン(21勝)が最多勝でサイ・ヤング賞に輝き、ボブ・ブール(17勝)、5年前にジョニー・セインと交換でヤンキースから移籍してきたルー・バーデット(16勝)の活躍もあって、2位カージナルスに8ゲーム差をつけて9年ぶりの優勝であった。スパーンのシーズン最多勝は4度目だがこの年から1961年まで5年連続最多勝投手となり、まさに絶頂期を迎えていた。そしてジャイアンツのウィリー・メイズ が2年連続盗塁王(38)となった。ドジャースは、主力のドン・ニューカム、カール・アースキン、ピー・ウィー・リースロイ・キャンパネラが年齢もあって揃って不振でブルックリン最後のシーズンは3位であった。わずかにジョニー・ポドレス投手が最優秀防御率2.66となったことが好材料であった。そしてリーグMVPを3回獲得したキャンパネラ捕手にとってはシーズン終了後に思わぬ事故で野球生命を絶たれ、ロサンゼルスではプレーできずこの年が現役最後の年となった。

アメリカンリーグニューヨーク・ヤンキースが、主砲ミッキー・マントルが打率.365・打点94・本塁打34本を打ち2年連続リーグMVPに輝いた。この年タイトルは最多得点だけであったが、打率は生涯最高の数字でありながらテッド・ウィリアムズの打率.388に及ばず、結局マントルはその後首位打者になることはなかった。チームの中心だったリズートが引退しトニー・クーベックが打率.297で新人王となった。ムース・スコーロン、ギル・マクドゥガルドらがいるがマントル以外はヨギ・ベラぐらいで打線は強力というものではなかった。また投手ではエースのホワイティ・フォードが11勝に終わり、ドン・ラーセンボブ・ターリーがいるが、投打とも傑出した選手は不在であった。それでもリーグ優勝であった。首位打者はウィリアムズだが、本塁打王と打点王はワシントン・セネタースのロイ・シーバースで3年前にブラウンズから移籍してきてから6年連続で本塁打20本以上を打ち、この年に本塁打42本・打点114でタイトルを獲得した。最多勝はデトロイト・タイガースのジム・バニングで20勝であった。バニングは翌年レッドソックス戦でノーヒットノーランを達成し、さらにナショナルリーグのフィリーズに移った1964年にメッツ戦で完全試合も達成して、サイ・ヤング以来史上2人目のアメリカンとナショナル両リーグでノーヒットノーランを達成している(後にノーラン・ライアン、野茂英雄、ランディ・ジョンソンも達成)。また両リーグで通算1000奪三振を達成(後にノーラン・ライアンも達成)し、引退後に連邦上院議員となった。

ワールドシリーズはブレーブスが元ヤンキースにいたルー・バーデット投手の3勝を上げる活躍でヤンキースを破った。
ドジャース、ジャイアンツの西海岸への本拠地移転

ブレーブスのミルウォーキー移転から、フランチャイズを全米に広げる動きが加速していたが、この年についにブルックリン・ドジャースとニューヨーク・ジャイアンツがカリフォルニア州への本拠地移転を決めた。

前年秋にドジャースのオマリーはエベッツ・フィールドを売却して、そこで得た約300万ドルでロサンゼルスの用地を購入していた。そしてこの年2月20日にロサンゼルスの本拠地権とリグレー・フィールド(当時パシフィックコーストリーグのマイナー球団だったロサンゼルス・エンゼルスの本拠地でシカゴ・カブスの傘下であったが、この購入でドジャースが傘下に収めた)をドジャースがそれまで持っていたフォートワースの本拠地権を売りプラス200万ドルでそれらを買い取った。そして本拠地とするスタジアムの建設に期間を要するため、1932年の夏季五輪のメイン会場(後に1984年の夏季五輪にも使われた)のロサンゼルス・メモリアル・コロシアムをしばらく賃貸することで、1958年からロサンゼルスに移転することを決めた。

そして一方では、ロサンゼルスへの移転だけでは西海岸に1球団だけで日程を組むのが難しいとナショナルリーグが難色を示したため、本拠地ポロ・グラウンズの老朽化と周辺地域の治安悪化と観客動員の減少という同じ悩みに苦しんでいたジャイアンツのオーナーであるホーレス・ストーンハムに誘いをかけた。ストーンハムは当初ジャイアンツをミネアポリスへ移転することを考えていたが、ドジャースがロサンゼルスへの移転を計画していたことを知ってジャイアンツもサンフランシスコへの移転を急遽決めて、レッドソックスが持つサンフランシスコの本拠地権とジャイアンツが持つミネアポリスの本拠地権を交換して、5月28日にナショナルリーグの会議で両球団のカリフォルニアへの移転が了承された。

ドジャースのシーズン最終戦は9月24日に行われ、これが1913年以来45年間使ってきた本拠地ブルックリンのエベッツ・フィールドでの最後の試合となり、シーズン終了後10月8日に正式に両球団の西海岸への本拠地移転が発表された。これでニューヨークからナショナルリーグのチームが無くなった。一方、MLBの原型となる1876年のナショナルリーグ発足以来、82年を経て初めて太平洋に面する西海岸の都市に本拠地を置くチームが同時に2つ誕生することになった。それまでMLBチームの本拠地都市の西端はミシシッピ川の西岸にあるミズーリ州のセントルイスで、そこから経度で西へ約30度、時間帯では2時間遅いサンフランシスコとロサンゼルスでのチーム設立はMLBの空間領域を劇的に拡大し、その後に続く中西部や南部へのチーム移転や全米各地での新球団の設立の先駆けとなった。


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