1951年イギリスグランプリレース詳細
1951年F1世界選手権全8戦の第5戦
シルバーストン・サーキット、1949年 - 1951年
日程1951年シーズン第5戦
決勝開催日7月14日
正式名称IV RAC British Grand Prix
開催地シルバーストン・サーキット
イギリス ノーサンプトンシャー州
コース恒久的レース施設
コース長4.649
レース距離408.410
決勝日天候Mild, Dry
ポールポジション
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フロイラン・ゴンザレス
フェラーリ
タイム1:43.4
ファステストラップ
ドライバー ニーノ・ファリーナアルファロメオ
タイム1:44.0
決勝順位
優勝
フロイラン・ゴンザレス
フェラーリ
2位
ファン・マヌエル・ファンジオ
アルファロメオ
3位
ルイジ・ヴィッロレージ
1951年イギリスグランプリ (IV RAC British Grand Prix) は、1951年F1世界選手権の第5戦として、1951年7月14日にシルバーストン・サーキットで開催された。
F1世界選手権の開始以来、インディ500を除くレースにおいてアルファロメオ以外の車両、そして自然吸気エンジン搭載車両が初めて優勝したレースであり、スクーデリア・フェラーリとフロイラン・ゴンザレスの初優勝でもある。 1937年までアルファロメオがレース活動を任せていたスクーデリア・フェラーリで指揮を取っていたエンツォ・フェラーリが1938年に独立し、スクーデリア・フェラーリ株式会社の名で活動していた。そして1948年からF1で活動するようになり、翌1949年には本格的な活動を開始した。1949年はアルファロメオがF1活動を行っていなかったため直接対決はなかったが、1950年からはF1世界選手権が始まり、世界各地で相見えていた。しかし1951年のフランスGPまではその全てにアルファロメオが勝利してきた。 この年のアルファロメオは、前年同様のスーパーチャージャーを装備した1.5リットルV12エンジンを搭載する新車159を投入し、万全の体制で望んだ。一方でフェラーリは前年までのスーパーチャージャーエンジンをやめ、4.5リットル非過給エンジンを搭載した375F1を投入している。 フロイラン・ゴンザレスは予選でファン・マヌエル・ファンジオを1秒上回り、そのキャリアで初のポールポジションを獲得した。またそれは、フェラーリチームにとっても初のポールポジションであった。加えて、インディ500を含む世界選手権で初めてアルファロメオ以外の車両が獲得したポールポジションでもあった。ニーノ・ファリーナとアルベルト・アスカリは予選3、4位となり、フロントローを獲得した[1]。 決勝ではゴンザレスとファンジオがフロントローから並んで飛び出し、すぐ後にアルファロメオのフェリーチェ・ボネット
レース概要
マセラティのジョン・ジェームズは23ラップ目にラジエターの問題でリタイアし、41ラップ目にはルイ・シロンがリタイアする。ファリーナは75ラップ目にアビーカーブでクラッチの滑りとエンジンの出火でリタイアした。彼は38ラップ目に1分44秒、平均99.99mphのファステストラップを記録し、1ポイントを獲得した。ゴンザレスはベケッツコーナーで再びリードを取り、そのまま優勝した。BRMのパーネルとウォーカーは手足の熱傷に苦しみながら戦いを続け、最終的には5位と7位に入った。
アルファロメオのファンジオとファリーナは燃料補給のため2回ピットインした。1ガロン当たり1と1/2マイルしか走行できず、ピットインでは70ガロンの燃料を補給しなければならなかった。両名とも2度のピットインが必要となり、それぞれのストップで数分を費やした。フェラーリはそれよりも燃費が良かったため、ゴンザレスは容易にアルファロメオを抜き、かなりのリードを稼ぐことができた。
50周目の時点でピットアウトしたファンジオと、トップのゴンザレスと間には90秒の差があった。燃料補給と共にタイヤ交換も行ったファンジオは、その新しいタイヤを活かして猛烈な追い上げを見せたが、この差はレース終了までに51秒までしか縮まらなかった。結局90周を燃料補給なしで走りきったゴンザレスが優勝、アルファロメオが初めて敗北したレースとなり、またフェラーリが積み上げている多くの勝利の1つ目として記録されている。