1951年の名古屋ドラゴンズ
成績
セントラル・リーグ2位
62勝48敗3分 勝率.564[1]
本拠地
都市愛知県名古屋市
球場中日スタヂアム
球団組織
オーナー千田憲三
経営母体名古屋鉄道(中日新聞社との輪番制)
監督天知俊一
≪ 19501952 ≫
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1951年の名古屋ドラゴンズでは、1951年の名古屋ドラゴンズの動向をまとめる。
この年の名古屋ドラゴンズは、天知俊一監督の3年目のシーズンである。 名古屋鉄道(名鉄)と中日新聞社が隔年で経営する体制となったことによりチーム名が「名古屋ドラゴンズ」に改称され、名鉄の千田憲三が1シーズン限りオーナーを務めた。 この年は2番に国枝利通を、開幕投手には後に監督を務めた近藤貞雄を迎えてスタート。この年は前年優勝の松竹が球団内の内紛で開幕から低迷したのを受け、巨人とともに優勝候補の筆頭に上がったもののペナントがはじまると巨人が独走し、名古屋・阪神が追い上げる展開が続いた。 8月19日の巨人戦で本拠地の中日球場がたばこの不始末で全焼。選手や関係者などに死者は出なかったものの、巨人の独走や本拠地の全焼など不運が続き最終的に2年連続の2位となったものの勝ち星は前年から大きく減り、1954年の初優勝まで苦闘の日々が続いた。本拠地の中日球場は8月20日の試合から改築工事に入ったため、他球場に振り替えられた。 投手陣は3年目の杉下茂が28勝で最多勝を獲得し、三富恒雄が12勝、星田次郎が10勝をあげるもそれに続く投手はおらず、開幕投手の近藤は打線の援護なく未勝利に終わった。打撃陣は前年までの長打ブームが減少したことにより本塁打が67本まで減少したが、坪内道典、国枝、原田徳光の3人が20盗塁を記録するなど機動力重視のチームへ転換し、盗塁数がリーグ2位の161個を記録した。シーズン終了後、天知監督が辞任して坪内新監督が就任した。 開幕オーダー1中坪内道典 1951年セントラル・リーグ順位変動順位4月終了時5月終了時6月終了時7月終了時8月終了時最終成績 1951年セントラル・リーグ最終成績順位球団勝敗分勝率差 [1] 監督天知俊一
概要
チーム成績
レギュラーシーズン
2二国枝利通
3右原田徳光
4一西沢道夫
5捕野口明
6左杉山悟
7遊松本和雄
8三土屋亨
9投近藤貞雄
1位巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--巨人--
2位国鉄0.0松竹1.5名古屋3.5名古屋11.0名古屋14.0名古屋18.0
3位名古屋2.5大阪2.0松竹7.5松竹14.5松竹19.0大阪20.5
4位大洋3.0名古屋4.5大阪9.0大阪15.0大阪19.5松竹27.0
5位松竹3.5国鉄大洋12.5大洋18.5国鉄25.0国鉄31.5
6位広島4.0大洋4.5国鉄13.5国鉄18.5大洋25.5大洋37.0
7位大阪4.5広島7.5広島17.0広島25.0広島33.5広島41.0
優勝読売ジャイアンツ79296.731---
2位名古屋ドラゴンズ
3位大阪タイガース61523.54020.5
4位松竹ロビンス53575.48227.0
5位国鉄スワローズ46592.43831.5
6位大洋ホエールズ40644.38537.0
7位広島カープ32643.33341.0
オールスターゲーム1951詳細は「1951年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
ファン投票選出なし
監督推薦杉下茂三富恒雄野口明坪内道典西沢道夫原田徳光
できごと
1月25日 - 前年に球団と中日スタヂアムの一体運営を企図して両社を合併した名古屋野球株式会社から球団が再分離され、前身の名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)、リーグ戦再開時の中部日本野球倶楽部に続く3代目の運営法人として株式会社名古屋野球倶楽部が発足(1954年に「株式会社中部日本野球協会」、1960年に「株式会社中日ドラゴンズ」へ改称し現在に至る)。
8月19日 - 対巨人19回戦の試合中、中日スタヂアムが全焼。
選手・スタッフ
投手
5 近藤貞雄
9 中西由行