1950年の映画
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東宝争議の妥結資金により日本映画演劇労働組合(日映演)が製作した『暴力の街』(山本薩夫監督)が公開[4]。第1次独立プロ運動への道を開いた[4]

2月16日 - 電力制限全面解除[7]

2月17日 - 映画倫理規程管理委員会(旧映倫)は、映画宣伝や広告も審査対象とすることを決定[5]

2月28日 - 公正取引委員会から審書送達、3月1日から日本映画界は原則フリー・ブッキング制に切替え[8][6][4]


3月

東宝、新東宝の提携問題の紛争が解決し、両者が完全に分離する[4]。3月20日、東宝・新東宝間の協定が成立[5]

3月1日 - 入場税税率が150から100パーセントに軽減される[9][6][4]

3月11日 - 関西の東宝洋画系(T・Y)と松竹洋画系(S・Y)が完全提携[5]

3月22日 - 東宝、入場税約2億1000万円が滞納となり、東京都より主要劇場の公売通告を受けるが、三和銀行の緊急融資により危機を脱する[10][5]


4月

4月6日 - 大映、映画芸術協会、山本嘉次郎黒澤明成瀬巳喜男谷口千吉本木荘二郎の5氏と契約[8]

4月18日 - 衆院本会議で「映画産業振興に関する決議」を可決[11]

4月22日 - 山本富士子、第1回ミス日本に選ばれる[7]


5月

岩波映画製作所創立[4]

5月17日 - 東宝、経営再建のため1,200名の人員整理を発表[11]


6月

大映、台湾へ戦後初輸出、『新愛染かつら』(1948年公開、久松静児監督)[12][8]

6月15日 - 『きけ、わだつみの声』(製作:東横映画・配給:東京映画配給)封切り、ヒット[13]

6月24日 - 日本映画監督協会は東宝の人員整理に反発し、演出・脚本の提供をしない旨を申入れ[11]。シナリオ作家協会も同調[11]


7月

東京通信工業(のちのソニー)、日本初のテープレコーダーを発売[10]

7月1日 - 帝国劇場、東宝から独立[11]

7月10日 - 大映ディズニーおよびサミュエル・ゴールドウィン・プロ(英語版)と輸入配給契約締結[3][8]

7月18日 - 毎日NBCテレヴィニュースママ〕新登場、大映委託配給扱い[8]

7月24日 - 京都市左京区・松竹下加茂撮影所、フィルム倉庫から出火、大正12年以降の貴重なネガフィルム、ステージ1棟のほか建物1,200平方メートルを消失[14][15]

7月28日 - 日本映画監督協会、対東宝非協力声明を撤回[11]

7月31日 - 松竹から独立した吉村公三郎新藤兼人絲屋寿雄近代映画協会設立[16][10][4][注 1]


8月

労働争議と分裂のために映画製作能力を欠いた東宝が、2週間興行に穴を開けるという失態を演じる[17]

宝塚スターの映画出演が認められる[11]

松竹、米モノグラム(英語版)、アライド・アーチスツイタリフィルムと配給契約締結[3]

8月21日 - 大映京都撮影所第2ステージから出火、同ステージ全焼、隣接の?音室を半焼[8]

8月25日 - 日本共産党東宝撮影所細胞に解散命令が下り幹部14名を追放[11]


9月

9月3日 - ジェーン台風、関西の映画演劇興行場、被害多数[8]

9月15日 - 大映洋画部設立[8]

9月22日 - 松竹、東宝、大映レッドパージで137名を追放[4][7][18]
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