1950年の読売ジャイアンツ
[Wikipedia|▼Menu]

1950年の読売ジャイアンツ
成績
セントラル・リーグ3位
82勝54敗4分 勝率.603
本拠地
都市
東京都文京区
球場後楽園球場

球団組織
オーナー正力松太郎
経営母体読売新聞社
監督水原茂
≪ 19491951 ≫

テンプレートを表示

1950年の読売ジャイアンツ(1950ねんのよみうりジャイアンツ)では、1950年における読売ジャイアンツの動向をまとめる。

この年の読売ジャイアンツは2リーグ制移行、水原茂監督の1年目のシーズンである。
概要

前年、シベリア抑留から復帰した水原を三原脩監督が起用しなかったことから、チーム内で三原に対する不満が生じ、いわゆる「三原監督排斥騒動」に発展した[1]。チームはこの内紛を収拾するために水原を監督に就任させ、三原を総監督という名目だけの閑職に追いやった[2]。前年優勝した巨人は2リーグ制移行に伴って創設された新球団に戦力を提供したものの、4番の川上哲治やこの年完全試合達成の藤本英雄などの豊富な人材が残っていたことから、シーズン序盤は松竹中日と首位争いをした。しかし5月に大きく負け越し、上位2チームに離されると水原監督の1年目は3位でシーズンを終えた。この年は打高投低の年と言われ、両リーグ全体で1500本の本塁打が飛び交い特にセ・リーグはそれが顕著で、8球団中6球団が100本以上をマークするなど空前絶後の年だった。巨人はリーグ3位の126本塁打を記録したほか、212盗塁とリーグ2位だった。投手陣も藤本、別所毅彦らの活躍でチーム防御率2.90を叩き出し、セ・リーグ1位と健闘した。
チーム成績
レギュラーシーズン

開幕オーダー1千葉茂
2山川喜作
3青田昇
4川上哲治
5手塚明治
6萩原寛
7小松原博喜
8藤原鉄之助
9藤本英雄

1950年セントラル・リーグ順位変動順位3月終了時4月終了時5月終了時6月終了時7月終了時8月終了時9月終了時10月終了時最終成績
1位中日--中日--松竹--松竹--松竹--松竹--松竹--松竹--松竹--
2位松竹1.0松竹0.0中日1.0中日5.0中日5.0中日7.5中日9.0中日8.5中日9.0
3位巨人2.0巨人2.5巨人8.0巨人6.5巨人11.5巨人10.5巨人10.5巨人14.0巨人17.5
4位大洋3.0大阪10.0大阪10.0大阪8.5大阪14.5大洋20.0大阪22.5大阪25.5大阪30.0
5位大阪5.5大洋10.0大洋12.0大洋11.5大洋15.0大阪22.5大洋24.0大洋27.0大洋31.0
6位西日本7.0西日本11.5西日本18.0西日本19.0西日本22.0西日本28.5西日本34.5西日本43.5西日本48.5
7位広島7.5広島18.0広島20.0広島20.0広島25.5広島36.5広島43.0広島49.5国鉄57.5
8位国鉄10.0国鉄20.0国鉄27.0国鉄29.5国鉄34.5国鉄42.5国鉄48.5国鉄54.0広島59.0
期間
成績9勝4敗1分
勝率.69213勝5敗
勝率.7226勝11敗
勝率.3539勝5敗2分
勝率.6437勝10敗1分
勝率.41215勝3敗
勝率.83310勝4敗
勝率.7147勝10敗
勝率.4126勝2敗
勝率.750


1950年セントラル・リーグ最終成績順位球団勝率
優勝松竹ロビンス98354.737---
2位中日ドラゴンズ89444.6699.0
3位読売ジャイアンツ82544.60317.5
4位大阪タイガース70673.51130.0
5位大洋ホエールズ69683.50431.0
6位西日本パイレーツ50833.37648.0
7位国鉄スワローズ42942.30957.5
8位広島カープ41961.29959.0

できごと

6月28日 - 藤本英雄が対西日本戦(青森市営球場)で、NPB史上初の完全試合を達成、無安打無得点試合としては自身2度目となる通算22度目、2リーグ制以降では初。スコアは4対0[3]

入団・退団
シーズン開幕前

本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。

支配下選手
登録抹消
No選手名前所属区分No選手名去就区分
投手
25
吉江英四郎東急フライヤーズ移籍21川崎徳次西鉄クリッパース移籍
28緒方俊明西日本パイレーツ移籍
38井上嘉弘松竹ロビンス移籍
捕手
38中村国雄明大中野高新入団10丸木重信


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef