1949年の映画
2月21日 - 教育映画配給社創立[1][7]。
3月
松竹、進駐軍から返還された丸の内邦楽座、名称を接収時のピカデリー劇場に戻し、昼は英国映画の封切、夜は新劇の実験劇場としてオープン[8]。
3月15日 - 東宝、自主製作を中止し、今後1年間、製作を新東宝に任せる[9][注 1]。
3月28日 - 美空ひばり、『のど自慢狂時代』で映画デビュー[4][11]。
3月29日 - 松竹洋画系(S・Yチェーン)業務開始[9]。
4月
封切館の入場料金が50円(内税30円)になる[12]。
地方の下番線で邦画の2本立興行が台頭[9]。のちに2本立興行は邦画上映の主流となるが、製作費の負担が各社に重くのしかかる[13]。
5月
アメリカ映画雑誌『フォトプレイ(英語版)』日本語版が創刊[14][4]。
5月4日 - 日本映画監督協会発足[10][9]。
5月16日 - 東宝、東京・大阪・名古屋の証券所に上場[9][15]。
5月30日 - 東横映画京都撮影所、出火[5]。
6月
6月14日 - 日本映画連合会(映連)、ピカデリー劇場でGHQに要請され自主規制を意図した映画倫理規程管理委員会(旧映倫)を発足させる[10][16][17][9][5]。
7月
永田雅一社長と対立していた片岡千恵蔵が大映から東横映画(東映の前身)に移籍、9月には市川右太衛門も移籍[18]。
ジュリアーナ・ストラミジョーリがイタリーフィルム社を創立[10][16]。イタリア映画の輸入再開[10]。輸入第1作『戦火のかなた』(ロベルト・ロッセリーニ監督)はCIEの検閲で大幅なカットとなった[10]。
7月16日 - 公正取引委員会、東宝、松竹、大映ほか48興行者に対し、現行プロ〔グラム〕契約を独禁法第19条違反と認め審判開始決定書を送附[9]。
7月19日
朝日新聞に連載されていた石坂洋次郎の『青い山脈』が主演:原節子・池部良、助演:杉葉子(新人)で映画化されヒットする[4][注 2]。
京都東洋現像所、全焼[5]。
7月28日 - 過度経済力集中排除法指定下にあった東宝は、持株会社整理委員会により直接、間接に所有する他社株式の売却を指令されたのみで、企業分割は免れる[13]。後楽園スタヂアムの株式売却により、同社の経営から撤退[13]。
8月
8月1日 - 入場料金統制撤廃[16][19]。
8月12日 - 永田雅一大映社長初渡米[16][5]。9月10日、1か月にわたるアメリカ映画界視察の旅から帰国[5]。
9月
GHQのシャウプ勧告によって、〔1950年3月1日から〕入場税が150パーセントから100パーセントに軽減されることになる[19]。
日活、日本スポーツを買収。10月、東京芝公園・屋内競技場「東京スポーツセンター」を「日活スポーツセンター」と改称し、スケート場経営を開始[20]。
9月26日 - 東宝、米本卯吉社長就任[16][19]。
10月
東宝、映画製作再開[16]。自主配給路線の新東宝と争い[16]。
東急合資による東横映画と太泉スタヂオのための配給会社、東京映画配給(東映の前身)創立[10][16]。
10月1日 - 国際俳優・早川雪洲、13年ぶりに帰国[1][5]。
10月10日 - 剣劇映画の企画続出に対し、映画倫理規程管理委員会(旧映倫)、製作各社に警告を発する[5]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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