1948年アメリカ合衆国大統領選挙
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1948年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1948

1944年 ←
1948年11月2日
→ 1952年


投票率53.0%[1] 2.9%
 
候補者ハリー・S・トルーマントマス・E・デューイストロム・サーモンド
政党民主党共和党州権民主党
出身地域ミズーリ州ニューヨーク州サウスカロライナ州
副大統領候補者
アルバン・W・バークリー
アール・ウォーレン
フィールディング・L・ライト
獲得選挙人30318939
勝利地域数28164
得票数24,179,34721,991,2921,175,930
得票率49.6%45.1%2.4%


州別獲得選挙人分布図
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選挙前大統領

ハリー・S・トルーマン
民主党選出大統領

ハリー・S・トルーマン
民主党

1948年アメリカ合衆国大統領選挙(1948ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、英語: United States presidential election, 1948)は、1948年11月2日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第41回)である。
概要

アメリカ史上最大級の番狂わせが起こった選挙であったと多くの歴史家から言及されており、選挙前に行われたあらゆる予測(世論調査を行っていようといまいと)では、民主党の現職大統領ハリー・S・トルーマン共和党候補のトマス・E・デューイに敗れるとしていた。しかしながらトルーマンは、所属する民主党の3分裂(民主党、ディキシークラット党、進歩党)を克服して勝利した。この驚くべき勝利によって、民主党は大統領選挙で1932年から5回続けて勝利することとなった。この大統領選挙でのトルーマンの勝利は民主党の多数党としての立場を確立させ、この状態は保守派の再編となった1968年の選挙まで続くことになった。
候補者の指名
共和党の指名

共和党の指名候補者

トマス・E・デューイニューヨーク州知事

ハーバート・E・ヒッチコック(英語版)、元サウスダコタ州選出アメリカ合衆国上院議員

ダグラス・マッカーサーアメリカ陸軍将軍、アーカンソー州出身

ハロルド・スタッセン(英語版)、元ミネソタ州知事

アーサー・ヴァンデンバーグミシガン州選出アメリカ合衆国上院議員、上院臨時議長

アール・ウォーレンカリフォルニア州知事

ロバート・タフトオハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員


ライリー・A・ベンダー(英語版)、実業家、イリノイ州出身

ジョーゼフ・ウィリアム・マーティン・ジュニアアメリカ合衆国下院議長、マサチューセッツ州出身

エドワード・マーティン(英語版)、元ペンシルベニア州知事

レブレット・ソルトンストール(英語版)、マサチューセッツ州選出アメリカ合衆国上院議員

2大政党は第二次世界大戦で最も人気を博した将軍であるドワイト・D・アイゼンハワー将軍に食指を動かした。1948年ではアイゼンハワーの政治的見解は不明だった。彼は後の出来事でわかったように中道の共和党員だったが、1948年にはいかなる政党の指名もきっぱりと断った。

アイゼンハワーが断ると、共和党の候補指名争いはニューヨーク州知事トマス・E・デューイ、元ミネソタ州知事ハロルド・スタッセン、ダグラス・マッカーサー将軍、オハイオ州選出アメリカ合衆国上院議員ロバート・タフトおよびカリフォルニア州知事アール・ウォレンが有力となった。デューイ知事は1944年の共和党候補であり、予備選挙が始まった時に1番手と目された。デューイは1946年の選挙で共和党が東部で力強く躍進した時の指導者と認められており、ニューヨーク州知事としては州の歴史の中でも最大の票差で再選されていた。デューイの欠点は多くの共和党員に嫌われていたことだった。彼を観察する者には冷たく、堅物で見下したような印象を与えた。タフトは共和党保守派の指導者だった。彼は1947年に民主党の国内外交両政策を攻撃することで選挙運動を開始した。外交政策において、タフトは孤立主義であり、タフトが占領下のドイツモーゲンソー・プランを実行し、それによってヨーロッパ経済を破綻させ、(タフトの見解では)マーシャル・プランという形で合衆国の税金での救済を要求するようになると非難した[2]。国内問題では、タフトとその仲間の保守派が、1930年代に作られたニューディール政策の社会福祉計画の多くを廃止しようとしており、これらの計画は実業界の利益にとって金を遣いすぎ有害だと見なした。タフトには2つの大きな弱みがあった。精彩の無い鈍感な候補者であり、党指導者の大半からはあまりに保守的すぎて論議が多く大統領選挙には勝てないと見られていた。タフトの支持基盤は出身地の中西部南部の一部に限られていた。

1948年の「意外な」候補者は、ミネソタ州政界の元「天才少年」スタッセンだった。スタッセンは31歳の若さでミネソタ州知事に選ばれ、1943年には知事職を辞めて第二次世界大戦ではアメリカ陸軍で従軍した。1945年には国際連合を創設する委員会で働いた。スタッセンは共和党の指名候補の中では最も「革新的」と広く認められていたが、予備選挙が進むにつれて、多くの問題で曖昧だと批判されるようになった。スタッセンはウィスコンシン州ネブラスカ州の予備選挙でデューイを破り、1番手に浮上した。続いてタフトの出身州であるオハイオ州でタフトを破ろうとして、戦略的な誤りを犯した。スタッセンは、タフトの出身州でタフトを破れば、タフトは指名争いを諦めることになり、タフト支持の代議員の大半がデューイではなくスタッセン支持に回るものと考えた。しかし、タフトがオハイオ州では勝利し、スタッセンは党保守派から嫌われるようになった。それでもスタッセンは近付きつつあるオレゴン州予備選挙の世論調査ではデューイをリードしていた。しかし、デューイはオレゴン州で負ければ指名のチャンスは無くなると認識して、その力強い政治組織をオハイオ州に送り込み、大金を遣ってオレゴン州での選挙宣伝を行った。スタッセンもラジオの全国放送でのデューイとの討論に同意し、これが初めての ⇒大統領候補者同士のラジオ討論となった。


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