1947年の映画
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11月30日 - 米国、映画監督エルンスト・ルビッチ死去[1][2]

月日不詳

米国、下院非米活動委員会、 共産主義映画人(ハリウッド・テン)を追放[3]

米国、チャップリンの『殺人狂時代』に対し、右翼が上映反対運動[3]

フランス、アメリカ映画の輸入増加に対し、監督、プロデューサーら映画防衛委員会結成[3]

ソ連、初の長編立体映画『ロビンソン・クルーソー(英語版)』製作[3]


日本「1947年の日本#できごと」も参照

1月

1月4日 - 公職追放令改正[4]。財界・地方公職・言論界のほか、映画界の主要人物(菊池寛白井信太郎円谷英二ほか)も対象となりパニック状態になる[4]

1月7日 - 電力不足で東京・浅草興行場一斉休館[5]

1月15日 - 東京マンションで新憲法普及会と劇映画3社〔松竹東宝大映〕代表、第2回会談[5]新憲法記念映画の企画決定[5]

1月16日 - 映画演劇協議会発足[5]

1月27日 - 大映、創立5周年記念日[5]


2月

セントラル映画社(CMPE)、6大都市に1館ずつロードショー劇場設置を発表[1]

2月7日 - 映画演劇協議会完全雇用専門委員会、引揚映画人の未就職者を対象とする就職斡旋について総合的な連絡を図ることを決議[5]

2月8日 - フィルム危機打開のため日本映画社(日映)ではニュース映画の上映時間を短くすることでフィルム消費を削減[5][注 1]

2月23日 - 大映、東横映画と製作、配給契約締結[5]


3月

3月1日 - 映画製作者連合会が日本映画連合会(映連)に改称[6][7]

3月4日 - 映画入場料金、封切館(一番館)[8]10円、二番館[9]以下5円に値上げ(ともに税込み金額)[5]

3月8日 - 東宝日映演脱退組を中心に、新東宝映画製作所創立[6][10][注 2]。東宝撮影所から478名移籍[6]。資本金の100万円は全額東宝が出資[7]

3月10日 - 東宝、渋沢秀雄大沢善夫植村泰二川喜多長政が、改正公職追放令の適用必至の状況となり、取締役を辞任[4]。同じく経営担当者9人が辞任[4]。田辺加多丸社長就任[10][7]

3月13日 - 日本興行組合連合会(興連)結成[5][6]

3月24日 - 大映永田雅一社長就任[5][10][注 3]

3月25日 - 東京・丸の内スバル座がアメリカ映画ロードショー館としてスタート[10][注 4]。木造ではあるが、定員890名の堂々とした映画館[11]


4月

4月1日 - 入場税が1円以上税率100パーセントになる[10][12][7]


5月

セントラル映画社(CMPE)がアメリカ映画の東宝への配給をストップ[13]

5月3日 - 新憲法(日本国憲法)施行[14]

5月7日 - 東宝・第2組合と第3組合が合併し、全国映画演劇労働組合(全映演)結成[6][13]

5月13日 - 日活、セントラル映画社(CMPE)とアメリカ映画上映の契約更新[15][5]、直営館27館をアメリカ映画専門館に変更[15]

5月17日 - 日本映画技術協会(のちの日本映画テレビ技術協会)発足[4][13][16]



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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