1946年の政治
昭和天皇の全国巡幸が始まる(写真は2月1946年、横浜市に行幸した際の様子)。天皇は国民と直接接し、敗戦に打ちひしがれた国民は天皇を熱烈に歓迎した。
2月19日
昭和天皇、神奈川県を巡幸、全国巡幸始まる。
部落解放全国委員会結成。
2月20日 - ソ連、樺太、千島の領有を宣言。
2月23日
山下奉文陸軍大将、絞首刑。
日本社会党、憲法改正案要綱発表。
2月26日 - 第1回極東委員会開催。
2月28日 - 公職追放令公布施行。
3月
3月1日 - 労働組合法施行。
3月5日 - ウィンストン・チャーチル前英国首相が、鉄のカーテン演説を行う[1][2]。
3月6日 - 政府、憲法改正草案要綱を発表。GHQ、支持を表明。
3月9日 - 都会地転入抑制緊急措置令公布。食糧事情悪化のため、全国25都市への転入を禁止する。
3月14日 - 衆議院議員候補者の政見放送(ラジオ)始まる。
4月第22回衆議院議員総選挙後の党派別勢力図
4月5日 - 東京で第1回連合国対日理事会が開催。
4月8日 - 首相官邸に徳田球一共産党書記長ら「国民代表」がデモ。
4月10日 - 第22回衆議院議員総選挙。
日本自由党141議席、日本進歩党94議席、日本社会党93議席、日本協同党14議席、日本共産党5議席、諸派38議席、無所属81議席。
初めて婦人議員38名が当選。内訳は日本社会党8名、日本進歩党6名、日本自由党5名、日本共産党1名、諸派9名、無所属9名。
4月16日
幣原首相、日本進歩党総裁に就任。政権維持を画策。
社会党中央執行委員会。
4月17日 - 社会党中央執行委員会、幣原内閣打倒のために自由党、協同党、共産党の各党と共同闘争実施方針を決定。
4月18日 - 国際連盟が解散を決議。
4月19日
衆議院議長応接室で幣原内閣打倒共同委員会開催。幣原内閣の即時退陣の声明と決議文を作成。
共同委員会代表の三木武吉、徳田球一、井川忠雄ら首相官邸に幣原首相を訪問。
4月20日
第2回幣原内閣打倒共同委員会開催。
持株会社整理委員会令公布施行
4月22日 - 幣原内閣総辞職。
4月23日
幣原首相、首相官邸に鳩山一郎自由党総裁と片山哲社会党書記長と個別に会談。第一党である自由党の鳩山首班で合意。
自由党、鳩山首班による自由、進歩、社会三党の挙国連立内閣組閣の方針決定。
河野一郎自由党幹事長、片山社会党書記長と会談。正式に連立政権参加を打診。
社会党常任中央執行委員会、「首班か野党か」の方針を決定。
4月24日
片山社会党書記長、河野自由党幹事長に連立参加拒否を応答。河野は4回、片山を訪問。
沖縄民政府発足。初代知事に志喜屋孝信。
4月25日
河野・片山会談。自社共協4党共同委員会による時局収拾で合意。
4党共同委員会開催。首班問題は自社両党で政策問題は4党小委員会で討議。
4月26日
社会党常任中央執行委員会、連立打ち切りを決定。
4党小委員会決裂。
4月27日
鳩山・片山会談。片山書記長、自由党の単独内閣と個別政策の閣外協力を提案。
自由党代議士会で鳩山総裁が公職追放疑惑を打ち消す声明。
4月28日 - 河野自由党幹事長、自由党単独内閣、社会党閣外協力で工作。
4月30日 - 社会党常任中央執行委員会、自由党単独内閣支援を決定。
5月第17回メーデーで演説する徳田球一共産党書記長。共産党の指導する労働攻勢は次第に拡大していった。
5月1日 - 第17回メーデー(復活第1回)開催。
5月2日
自由、社会両党の政策協定委員による協議。
自社両党による政策協定協議案、共産党を除く4党共同委員会で承認。
鳩山一郎自由党総裁、首相官邸に幣原首相を訪問。
幣原首相、宮中に参内し、鳩山を首班に奏請。GHQに鳩山首班を公文書で提出。
鳩山一郎自由党総裁に大命降下。
5月4日 - 鳩山一郎が公職追放。大命を拝辞する。
「ワンマン宰相」吉田茂登場。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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