1946年のメジャーリーグベースボール
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1946年のできごとを記す。

1946年4月16日に開幕し10月15日に全日程を終え、ナショナルリーグセントルイス・カージナルスが2年ぶり9度目のリーグ優勝を、アメリカンリーグボストン・レッドソックスが28年ぶり7度目のリーグ優勝をした。

ワールドシリーズはセントルイス・カージナルスがボストン・レッドソックスを4勝3敗で破り、2年ぶり6度目のシリーズ制覇となった。

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できごと

ナショナルリーグはカージナルスとドジャースとが激しく競り合い、最終154試合を終わって両チームともに96勝58敗で終わり、優勝は1901年以降で初めてプレーオフに持ち込まれた。3試合制で行われた優勝決定シリーズはエディ・ダイアー監督のカージナルスが2勝して、9度目のリーグ優勝となった。イーノス・スロータースタン・ミュージアルの3・4番コンビが活躍してスローターが打点130で打点王を、ミュージアルが打率.365で首位打者及びリーグMVPとなった。投手陣ではブリチーン、ハリス、クリンガーらが健闘した。

一方アメリカンリーグではレッドソックスが独走であった。レッドソックスはジョー・クローニン監督の下で投手陣はブー・フェリス、ヒューソンが20勝以上を稼ぎ、ヨーク、ボビー・ドーア、そしてテッド・ウイリアムスが打ちまくり、100打点以上を挙げた。他には最多安打のジョニー・ペスキー、ドム・ディマジオ(ジョー・ディマジオの実弟)らがいた。そしてワールドシリーズではレッドソックス有利との大方の予想であったが、主砲テッド・ウイリアムスが不振(25打数5安打)に終わり、カージナルスではスタン・ミュージアルも不振(27打数6安打)であったがイーノス・スローターが第4戦で4安打を放ち、投手ではブリチーンが第2戦完封、第6戦は1失点で完投勝利した後、第7戦も8回からリリーフ登板して勝利し、カージナルスがシリーズ制覇した。ブリチーンはシリーズ3勝で防御率0.45の素晴らしい投球内容であった。また3勝3敗で迎えた第7戦で、3-3の同点の8回裏、打者が二塁打(記録は二塁打だが実際はシングルヒット)を放ち、一塁走者のスローターは一塁から一気にホームインして優勝を決める決勝点を挙げた。この時のスローターの走塁は後にファンに「マッド・ダッシュ」と呼ばれるほどスローターの代表的なプレーとなった。
テッド・ウィリアムズ

テッド・ウィリアムズ は、3年間の兵役から戻って来たこの年無冠に終わったが、打率.342、本塁打38本、打点123でリーグMVPを獲得しレッドソックスの優勝に貢献した。しかも夏のオールスターゲームで本塁打2本、打点5を挙げる大活躍をした。そして既に4割打者(1941年)・三冠王(1942年)を達成していたウィリアムズが、この年7月14日の対インディアンス戦のダブルヘッダー第1試合に5打数4安打(本塁打3本)を打ち、この余りの猛打にクリーブランド・インディアンスのルー・ブードロー監督(選手兼任)は直後の第2試合で彼が打席に立つと守備に就いている自軍のメンバーでレフト以外を右翼よりに極端に移動させて彼の打棒を封じようとした。後に「ブードロー・シフト」(ウイリアムズ・シフトとも言われる)と呼ばれたがウイリアムズはそれでもライト前にヒットを打った。後の日本の読売ジャイアンツの王貞治に対して行った「王シフト」はこのウイリアムズに対するシフトからヒントを得たとされているが、ブードロー・シフトの方がより極端なシフトである。テッド・ウィリアムズ はこの翌年に再び三冠王となった。

ただテッド・ウィリアムズ のワールドシリーズ出場は結局この1946年のみとなり、引退後にワールドシリーズで打てなかったことをいつも後悔していたという。とりわけ最終第7戦でホームラン性の当たりを2本好捕され、8回表にドム・ディマジオが同点二塁打を打った直後に打順が回ってきた時に平凡な二塁フライで決勝点を自ら叩き出せなかったことをその後の人生でも悔いていたという。3対3の同点にした後の8回裏にイーノス・スローターの好走塁マッド・ダッシュでカージナルスが決勝点を挙げる前に、レッドソックスが逆転出来るチャンスであった。
ハンク・グリーンバーグ

デトロイト・タイガースのハンク・グリーンバーグは、この年本塁打44本・打点127で本塁打王と打点王を獲得した。しかし守備で1塁にコンバートされたが失策が多く、翌1947年にピッツバーグ・パイレーツにトレードされ、翌年限りで引退した。通算打率.313、本塁打331本、打点1276で、史上最大の右打者とも呼ばれたがシーズンを全うしたのは9年間だけで、第二次大戦で兵役に長く就いたため記録は伸びなかった。しかしトレードされたパイレーツでラルフ・カイナーと出会うことになる。(1956年殿堂入り)
ラルフ・カイナー

1941年に3000ドルの契約金でピッツバーグ・パイレーツと契約した選手がいた。この選手はその直後にアメリカが第二次大戦に参戦したので兵役に就き、終戦後のこの年にパイレーツからデビューして23本のホームランを打っていきなりアメリカンリーグの本塁打王に輝き、以後7年連続本塁打王を獲得し、10年間に369本の本塁打を打った。デビューした年から7年間本塁打王を取ったのはこの選手ラルフ・カイナーが初めてであった。そして翌年にタイガースのハンク・グリーンバーグがトレードされてパイレーツに入団しカイナーとチームメイトになったことはカイナーにとって大きな意味を持つことになった。彼の現役時代の有名な言葉がある。「ホームランバッターはキャデラックに乗れ。シングルヒッターはフォードに乗れ」(1975年殿堂入り)
コニー・マックとの再会

5年前にアスレチックスを訪ねてコニー・マック監督に認められた大学生のルー・ブリッシーは、入団を希望したが、大学を卒業してからとコニー・マックに諭されて、自分の大学に戻ったが、翌年に日本軍の真珠湾攻撃からアメリカが参戦すると同時に志願して兵役に就いた。1944年12月、イタリア戦線にいたブリッシーは歩兵伍長になっていたがボローニャ市で幕営していた時にドイツ軍の砲弾を受けて瀕死の重傷となった。野戦病院で応急処置を受けてナポリの病院に運ばれて軍医から左脚の切断を告げられた。ブリッシーは「お願いです。左脚を切らないで下さい。私は野球選手です。戦争が終わったらアスレチックスで投げるんです。お願いです。」と懇願すると、このブルーベイカーと名乗る軍医は無類の野球好きでインディアンスのファンで、「それならば何とかして切断しないで手術で治す方法を考えよう。だが手術は大変で相当な忍耐がいる。覚悟するか」と言うとブリッシーは頷いた。それからが彼にとって大変な日々となった。左脚のスネが12センチにわたって骨が粉々になっていたからだ。本国に帰ってから病院を転々としながら合計23回の手術を行った。ブルーベイカー軍医も一緒に回っていた。彼は従軍してからコニー・マックに手紙をずっと送り続け、負傷し手術を受けている時も手紙を送り続けた。コニー・マックも返事を出し「アスレチックスには君の席がある」と書き、「監督命令だ。


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