1945年の映画
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映配九州本部倉庫、失火により全焼。プリント(ポジフィルム[12])の被害甚大[6]

2月1日 - フィルム事情悪化のため、映画館の4割に映画が配給されなくなる[13]。2月3日、同様にニュース映画が2週間ごとの更新になった[9][13]

2月2日 - 「大東亜映画選定褒章制度」、映画協会で設定[8]

2月5日 - 『海の虎』(春原政久監督)、情報局国民映画に選定[8]、8日封切[14]

2月15日 - 大映直営浜松映画劇場、空襲のため焼失[8]


3月

文部大臣賞、『加藤隼戦闘隊』(特賞)、『あの旗を撃て』、『轟沈』、『爆風と弾片』(ドキュメンタリー)受賞[6]

大東亜映画賞、『あの旗を撃て』、『狼煙は上海に揚る』[15]、『萬世流芳(ばんせいりゅうほう)』[16]受賞[6]

映画雑誌『映画評論』・『新映画』・『日本映画』の3誌、空襲による印刷製本の機能破壊で発行不能[1]

3月9日 - 東宝、大阪・梅田映画劇場南街映画劇場を吸収合併[17]

3月10日

東京大空襲で映画館45館が焼失する[9]

東京八丁堀・大映別館、空襲のため焼失[8]


3月13日

大阪大空襲[17]

大阪道頓堀・大阪朝日座[18]、大阪・四貫島大映劇場、空襲のため焼失[8]


3月19日 - 名古屋・常楽館 (休止館)、空襲のため焼失[8]


4月

日映練馬撮影所、戦災により焼失[6]

4月1日 - 入場税率改正、1円未満100%、1円以上200%[19]

4月13日 - 京都・東舞鶴大映劇場、疎開命令により休止[8]

4月24日 - 大日本映画製作(大映)の直営館29館、日本活動写真(日活)への譲渡成立調印[17][20] [注 2]。日活の劇場数は合計90館になる[20] [注 3]


5月

5月1日 - 大日本映画製作(大映)の直営館3館(浅草電気館麻布大映劇場・京都京極映画劇場)、松竹へ譲渡[8]

5月17日 - 『生ける椅子』(野淵昶監督)、情報局国民映画に選定[8]、同日封切[23]

5月24日 - 東宝、東京世田谷・砧撮影所に多数の焼夷弾が落下したが被害は僅か[17]

5月25日 - 大日本映画製作(大映)の本社4階[注 4]、空襲のため焼失[8]


6月

6月1日 - 映画公社発足[24]。それまでのあらゆる統制団体(大日本映画協会、映画配給社など)は解散[19]


7月

7月1日 - 大映所有の大阪老松座、空襲のため焼失[8]

7月22日 - 『最後の帰郷』(監督:田中重雄吉村廉)、情報局国民映画に選定[8]、26日封切[25]


8月

8月6日 - 俳優・丸山定夫、女優・園井恵子ら、広島原爆による戦災死[24]

8月15日

日本全国で映画館は僅か850館しか残っていなかった[26][注 5]。戦災で焼失した映画館は日本全国で513館[1][24]。終戦後1週間は上映する映画も無かったので休館となった[26][1][注 6]

決戦非常措置により閉鎖した高級劇場再開、劇映画の一部、文化映画、時事映画の配給全部停止[6]

松竹、直営館数が前年(1944年)7月には110館であったが、戦災による焼失・破損のため35館に激減[28]


8月30日 - 松竹、戦後封切り第1作『伊豆の娘たち』(五所平之助監督)公開[29][5][注 7]


9月

映画監督・島津保次郎死去[6]
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