1940年東京オリンピック
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この項目では、1940年東京市で開催される予定であった夏季オリンピックについて説明しています。その他の東京オリンピックについては「東京オリンピック (曖昧さ回避)」をご覧ください。

1940年東京オリンピック
第12回オリンピック競技大会
Jeux de la XIIe Olympiade
Games of the XII Olympiad

開催都市 日本 東京市(現在の東京都区部
参加国・地域数開催権返上により未開催
開会式1940年9月21日(予定)
閉会式1940年10月6日(予定)
主競技場駒沢競技場(予定)
Portal:オリンピック
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1940年東京オリンピック(1940ねんとうきょうオリンピック)は、1940年昭和15年)9月21日から10月6日まで、日本東京府東京市(現在の東京都区部)での開催が予定されていた夏季オリンピックである。

史上初となるアジアで行われる五輪大会と紀元二千六百年記念行事として準備が進められていたものの、日中戦争支那事変)や軍部の反対などから日本政府が開催権を返上、実現には至らなかった。
概要

当時、アジアにおける数少ない独立国で、かつ「五大国」の1国である日本首都東京での開催は、1936年昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定した。その後、開催の準備が進められたが、日中戦争支那事変)の勃発や、物資や兵士を取られる軍部の反対などから、日本政府は1938年(昭和13年)7月に開催権を返上した。

1940年大会の代替地として、オリンピックの招致合戦で東京の次点であったフィンランドの首都ヘルシンキが予定されたが、第二次世界大戦の勃発によりこちらも中止となった。なお、ヘルシンキオリンピックは1952年(昭和27年)に東京に先んじて実現した

第二次世界大戦後、日本は1960年(昭和35年)の夏季大会に東京を開催地として再び立候補したが落選した。しかし、次の1964年(昭和39年)の夏季大会に当選した。これはアジアで初のオリンピック開催となった。
経緯
意思表示

1929年(昭和4年)に、日本学生競技連盟会長の山本忠興は来日した国際陸上競技連盟(IAAF)会長・ジークフリード・エドストレーム(後のIOC会長)と会談し、日本での五輪開催は可能か否か、という話題に花を咲かせた。このエピソードが東京市当局や東京市長・永田秀次郎にも伝わり、にわかに五輪誘致の機運が高まってきた。翌1930年(昭和5年)にドイツで開催された世界学生陸上競技選手権から帰国した山本は、「オリンピック東京開催は俄然実現可能である」との調査報告書を市長あてに提出した。

1931年(昭和6年)10月28日、東京市会で「国際オリンピック競技大会開催に関する建議」が満場一致で採択された。主会場には、東京府荏原郡駒沢町(現・東京都世田谷区)の駒沢ゴルフ場の跡地に計画の競技場群、および明治神宮外苑を充てるとした。

永田は欧州駐在特命全権大使公使、さらにはジュネーヴ国際連盟事務局次長だった杉村陽太郎に宛てて招致運動への依頼状を送り、国内においては体育関係者、東京商工会議所に協力を依頼した。またアメリカ留学経験を持つ市会議員を派遣し、ロサンゼルスで開催されるIOC総会出席者への運動を行わせた。杉村は1933年に嘉納治五郎岸清一に次ぐ3人目のIOC委員に選任される。
立候補

1932年(昭和7年)に行われた当該総会の席上、日本代表はIOC会長に対し正式招待状を提出。こうして東京は、ローマイタリア)、バルセロナスペイン)、ヘルシンキフィンランド)、ブダペストハンガリー)、アレクサンドリアエジプト)、ブエノスアイレスアルゼンチン)、リオデジャネイロブラジル)、ダブリンアイルランド)、トロントカナダ)とともに、第12回国際オリンピック競技大会開催候補地として正式立候補したのであった。

1940年大会の開催地を決定する1935年にオスロノルウェー)で開催されたIOC総会では、東京、ローマおよびヘルシンキの3市の争いとなった。当時は、開催都市はその5年前の総会で決定するルールであった。東京開催の障害要因としては「夏季の高温多雨」、「欧米から遠く離れていることによる旅費・時間の問題(当時欧米以外において国内オリンピック委員会を持つ独立国は、アジアでは日本と中華民国アフガニスタン程度で、植民地ながら独自の国内オリンピック委員会を持っていたイギリス領インドアメリカ領フィリピンを加えても10にも満たず[注釈 1]、他にも南アメリカ諸国やオセアニアなどごく少数であった)」が挙げられた。

東京市は前者に関しては、例えばフランスマルセイユに比べてもはるかに涼しいこと、後者に関しては参加希望国当たり100万円の補助を行うことを述べて反論したが、それを受けて他の2市も同様の旅費、宿泊費補助プランを公表するなど、招致合戦は白熱した。
招致成功副島道正アンリ・ド・バイエ=ラトゥール(1936年)

1933年10月に病没した岸の後任としてIOC委員に選任された副島道正は、1934年(昭和9年)11月27日に高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇実弟)を訪ね、「開催権はイタリアに譲った方が良い」との本心を打ち明けた[1]

同年12月以降、副島は駐伊日本大使となっていた杉村とともにイタリア首相・ベニート・ムッソリーニへ直接交渉を行い、ローマが候補地から辞退するという約束を取り付けた[2]。しかしIOC創設50周年にあたる1944年度オリンピックに、IOC本部のあったスイスローザンヌが立候補することが明らかになると、1944年の開催は困難とふんだローマ市があらためて1940年度のオリンピックに立候補を表明した[2]。1935年に行われた総会は紛糾して会期切れとなり、開催地決定投票を翌年にベルリンで開催される総会に延期するという異例の展開となった[2]


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