だが、ベルリンでの開催決定後にドイツの政権を握ったナチス党が、ドイツ国民の支持の下にユダヤ人迫害政策を進めて行ったことや、反政府活動家に対する人権抑圧を行っていることを受けて、ユダヤ人が多いイギリスやアメリカ、そして開催地の地位を争ったスペインなどが、開催権の返上やボイコットを行う動きを見せていた。
これに対してドイツ政府は、この大会を開催したいがために、大会期間の前後に限りユダヤ人に対する迫害政策を緩めることを約束した他、ヒトラー自身も、有色人種差別発言、特に黒人に対する差別発言を抑えるなど、国の政策を一時的に変更してまで大会を成功に導こうとした。実際に、オリンピック開催の準備が進められる中、それまでドイツ中に見られていた反ユダヤ人の標語を掲げた看板は姿を消し、ユダヤ系の選手の参加も容認された。併せて反政府活動家が収監されていた収容所の規則は一時的に緩められた他、一部の反政府活動家は国外へ出国できる(事実上の亡命の容認)こととなった。
このようなドイツ政府の「変節」を受けて、開催ぎりぎりのタイミングで開催権の返上案は撤回され、また、国内からのボイコットの要望が根強かったイギリスやアメリカも参加することを決意した。
なおオリンピック開催後、イギリスやアメリカにおいて「人種差別的感情を抑え切れなかったヒトラーは、黒人のメダリストジェシー・オーエンスを快く考えず握手を拒否した」という噂があった。しかし実際には、ヒトラーは当初勝者全員と握手していたが、走り高跳び競技が長引き、ヒトラーは時間の都合上途中で退席せざるを得なかった。そこでオリンピック委員会が、公平を期すために全ての勝者に握手するかしないかを決めるよう要求したところ、ヒトラーは後者を選んだという。
また、オーエンスの回想によると「ヒトラーの席の前を通過する時に、ヒトラーは立ち上がり手を振った。私も手を振りかえした」という証言があるように、オリンピックの成功に向けて、多くのドイツ人のみならず、ヒトラーも自らの人種的偏見を表に出すことを抑制していた。 この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャのオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施された。これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適ったものでもあった。 聖火リレーのコースは、オリンピアを出発してブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ入るというものであった。 なお、ドイツ政府は聖火リレーのルート調査のためにルート途上の各国の道路事情を綿密に調査したが、1939年に勃発した第二次世界大戦においてドイツ軍がこの調査結果を活用し、後日ドイツ軍がルートを逆進する形で侵攻を行ったという逸話が残っている。この説には反論もあるが一般的にはこれが通説となっている。 この大会の3年後、1939年9月にドイツによるポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発し第12回東京大会と第13回ロンドン大会が中止されたため、この大会が大戦前最後の大会となってしまった。次の夏季オリンピックは世界大戦終結後の1948年(第14回ロンドン大会)まで12年の間隔が開くこととなる。 なお、開催地選定に敗れたスペイン政府は、ベルリンオリンピックへの参加をボイコットした上に同大会に対抗して、同時期に五輪候補地だったバルセロナで「人民オリンピック」を開催することを計画した[6]。ドイツからの亡命者を含む22か国から6,000人の参加が予定されていたが、開幕当日にスペイン内戦が勃発したために幻の大会となった。バルセロナでIOC公認オリンピックが開かれたのは56年後の1992年のことになる。詳細は「人民オリンピック」を参照 前回を大きく上回る49の国と地域(独自の国内オリンピック委員会を保有していたアメリカやイギリスのいくつかの植民地)が出場した。なお、アフガニスタン、イギリス領バミューダ、ボリビア、コスタリカ、リヒテンシュタインとペルー[注釈 1]が初参加となった。一方でリトアニアはクライペダ地方(ドイツ名メーメルラント)の占領
初の聖火リレー
第二次世界大戦前最後の大会
「人民オリンピック」
出場国青色が初参加国、緑色の国がその他の参加国。ベルリン市内に掲揚された各国旗。