1936年ベルリンオリンピック
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「ベルリンオリンピック」と「ベルリン五輪」はこの項目へ転送されています。
1916年に開催される予定だった、第6回夏季オリンピックについては「1916年ベルリンオリンピック」をご覧ください。

1936年ベルリンオリンピック
第11回オリンピック競技大会
Jeux de la XIe olympiade
Games of the XI Olympiad
Spiele der XI. Olympiade

開催都市 ドイツ国 ベルリン
参加国・地域数49
参加人数4,066人(男子3,738人、女子328人)
競技種目数21競技129種目
開会式1936年8月1日
閉会式1936年8月16日
開会宣言アドルフ・ヒトラー総統
選手宣誓イト・レーティー
最終聖火ランナーフリッツ・シルゲン
主競技場オリンピアシュタディオン
夏季« 1932年ロサンゼルス1948年ロンドン »
冬季« 1936年ガルミッシュパルテンキルヒェン1948年サンモリッツ »
Portal:オリンピック
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1936年ベルリンオリンピック(1936ねんベルリンオリンピック)は、1936年8月1日から8月16日まで、ドイツベルリンで行われた第11回オリンピック競技大会
概要
開催決定

ベルリンは1916年のオリンピック開催都市として一度は開催が予定されていたが、第一次世界大戦によって中止された。さらにドイツは第一次世界大戦に敗北し、国土が荒廃し経済危機に陥ることとなった。

しかし、1931年にフランスパリで行われた第11回夏季オリンピックの開催地投票においてベルリンがスペインバルセロナを43対16で破って再び開催地の地位を獲得したことで、開催に向けての準備が進められた(夏季五輪は開催が取りやめとなった場合でも開催地に選択されたことが「みなし回次」として残るため、今回のベルリンでの開催決定は公式上は2度目として形式的な記録に残る)。

1936年夏季五輪投票結果都市国1回目
ベルリン ドイツ国43
バルセロナ スペイン16

「ヒトラーのオリンピック」ベルリン市内に飾られた彫刻ベルリンオリンピック時のベルリン・オリンピアシュタディオン。右側の柱にはハーケンクロイツが描かれているオリンピアシュタディオンに入場するヒトラー[1]聖火リレーウンター・デン・リンデンに展示された聖火台。背景に写っているのはベルリン大聖堂

その翌年の1932年11月ドイツ国会選挙の後に首相に任命されドイツ政権を獲得し、反ユダヤ主義政策を打ち出し同国の国民からの支持を背景に当時隆盛を誇っていたアドルフ・ヒトラー総統は、当初オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとしてベルリン開催に難色を示した。反ユダヤ・反フリーメイソンのヒトラーにとってオリンピックとは「ユダヤとフリーメイソンによる発明[2][3]」とされていた。

しかし、側近から「大きなプロパガンダ効果が期待できる」との説得を受けて、開催することに同意した。開会式ではプロパガンダの一環として第一回マラソン優勝者のスピリドン・ルイスが招待されたりもしている。

ヒトラーがオリンピックの開催を決めた後は、オリンピックを「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」と位置づけ、ベルリンだけでなくドイツが国の総力を挙げて開催準備を進め、短期間でオリンピック・スタジアム(オリンピアシュタディオン[4])や選手村、空港道路鉄道ホテル、さらに当時まだ実験段階であったテレビ中継[5]などの受け入れ態勢の整備が進められた。
人種差別政策の一時凍結

だが、ベルリンでの開催決定後にドイツの政権を握ったナチス党が、ドイツ国民の支持の下にユダヤ人迫害政策を進めて行ったことや、反政府活動家に対する人権抑圧を行っていることを受けて、ユダヤ人が多いイギリスやアメリカ、そして開催地の地位を争ったスペインなどが、開催権の返上やボイコットを行う動きを見せていた。

これに対してドイツ政府は、この大会を開催したいがために、大会期間の前後に限りユダヤ人に対する迫害政策を緩めることを約束した他、ヒトラー自身も、有色人種差別発言、特に黒人に対する差別発言を抑えるなど、国の政策を一時的に変更してまで大会を成功に導こうとした。実際に、オリンピック開催の準備が進められる中、それまでドイツ中に見られていた反ユダヤ人の標語を掲げた看板は姿を消し、ユダヤ系の選手の参加も容認された。併せて反政府活動家が収監されていた収容所の規則は一時的に緩められた他、一部の反政府活動家は国外へ出国できる(事実上の亡命の容認)こととなった。

このようなドイツ政府の「変節」を受けて、開催ぎりぎりのタイミングで開催権の返上案は撤回され、また、国内からのボイコットの要望が根強かったイギリスやアメリカも参加することを決意した。

なおオリンピック開催後、イギリスやアメリカにおいて「人種差別的感情を抑え切れなかったヒトラーは、黒人のメダリストジェシー・オーエンスを快く考えず握手を拒否した」という噂があった。しかし実際には、ヒトラーは当初勝者全員と握手していたが、走り高跳び競技が長引き、ヒトラーは時間の都合上途中で退席せざるを得なかった。そこでオリンピック委員会が、公平を期すために全ての勝者に握手するかしないかを決めるよう要求したところ、ヒトラーは後者を選んだという。

また、オーエンスの回想によると「ヒトラーの席の前を通過する時に、ヒトラーは立ち上がり手を振った。私も手を振りかえした」という証言があるように、オリンピックの成功に向けて、多くのドイツ人のみならず、ヒトラーも自らの人種的偏見を表に出すことを抑制していた。
初の聖火リレー

この大会において、プロパガンダ効果を高めることを目的に古代オリンピックの発祥地であるギリシャオリンピアで聖火を採火し、松明で開会式のオリンピアシュタディオンまで運ぶ「聖火リレー」が初めて実施された。これは彼らゲルマン民族こそがヨーロッパ文明の源流たるギリシャの後継者であるというヒトラーの思想に適ったものでもあった。

聖火リレーのコースは、オリンピアを出発してブルガリアユーゴスラビアハンガリーオーストリアチェコスロバキアを経由し、ドイツ国内へ入るというものであった。

なお、ドイツ政府は聖火リレーのルート調査のためにルート途上の各国の道路事情を綿密に調査したが、1939年に勃発した第二次世界大戦においてドイツ軍がこの調査結果を活用し、後日ドイツ軍がルートを逆進する形で侵攻を行ったという逸話が残っている。


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