1933年3月ドイツ国会選挙
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1933年3月ドイツ国会選挙

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1933年3月5日 (1933-03-05)
→ 1933年11月


内閣ヒトラー内閣
解散日1933年2月1日
改選数647議席
選挙制度比例代表制
有権者20歳以上のドイツ国民
有権者数44,685,764人


 第1党第2党第3党
 
党首アドルフ・ヒトラーオットー・ヴェルスエルンスト・テールマン
政党国民社会主義ドイツ労働者党ドイツ社会民主党ドイツ共産党
党首就任1921年7月28日1919年1925年10月
前回選挙196議席
33.09%121議席
20.43%100議席
16.86%
獲得議席288議席120議席81議席
議席増減92議席1議席19議席
得票数17,277,180票7,181,629票4,848,058票
得票率43.91%18.25%12.32%
得票率増減10.82%2.18%4.54%

 第4党第5党第6党
 
党首ルートヴィヒ・カースアルフレート・フーゲンベルクハインリヒ・ヘルト
政党中央党ドイツ国家人民党バイエルン人民党
党首就任1928年9月1928年1924年6月27日
前回選挙70議席
11.93%52議席
8.34%20議席
3.09%
獲得議席74議席52議席18議席
議席増減4議席0議席2議席
得票数4,424,905票3,136,760票1,073,552票
得票率11.25%7.97%2.73%
得票率増減0.68%0.37%0.36%

選挙区別の結果各選挙区での最多得票政党とその得票率群および独立市別の結果
選挙後の国会勢力図

選挙前首相

アドルフ・ヒトラー
国民社会主義ドイツ労働者党選出首相

アドルフ・ヒトラー
国民社会主義ドイツ労働者党

1933年3月5日のドイツ国会選挙(:Reichstagswahl vom 5. Marz 1933)は、1933年3月5日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)政権下で初めて行われた国会選挙であった。選挙の結果、ナチ党と連立与党ドイツ国家人民党(DNVP)で過半数を獲得した。選挙後にドイツ共産党(KPD)が禁止されて議席ごと抹消されたため、ナチ党が単独過半数を確保した。この選挙により政権発足以来保守派閣僚に囲い込まれていたヒトラーが行動の自由を獲得し、召集された国会で全権委任法を可決させて独裁権力を固めた。
国会の解散までの経緯

1933年1月30日に国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)の党首アドルフ・ヒトラーパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任じられた。しかし内閣発足当初、ナチ党の閣僚はヒトラーの他、ゲーリング(無任所相)、フリック(内相)の3人だけであり、他の閣僚職はヒンデンブルクの側近で副首相として入閣したパーペンが人選し、ドイツ国家人民党(DNVP)や鉄兜団、それ以前の大統領内閣から留任した貴族たちなど保守派で占められた。多数の保守派閣僚で囲い込んでヒトラーを傀儡にしようというパーペンの陰謀だった[1]

当時ナチ党は国会の第一党であったが、連立与党の国家人民党と足しても国会で過半数を得られていなかった。したがってヒトラー内閣以前の三代の大統領内閣と同様に国会から内閣不信任案を突き付けられる危険性があった。その対策は今まで通り国会無視の大統領緊急令による政治を行うか、総選挙で与党過半数を狙うか、中央党(Zentrum)を与党に引き込むか、ドイツ共産党(KPD)議員の資格を停止するか(共産党議席を停止すればナチ党と国家人民党で過半数になる)のいずれかであった[2]

ヒンデンブルクが中央党取り込みを希望したため内閣はまず中央党と連立交渉を行ったが、ヒトラーは保守派閣僚による囲い込み状態突破のためにも総選挙に打って出たがっており、一方、国家人民党党首アルフレート・フーゲンベルクカトリック嫌いと農業と社会政策に関する利害から中央党の政権参加を拒否していた[3][2]。このような状況のため内閣と中央党の連立交渉は申し訳程度のものとなり、2月1日にはヒンデンブルクに連立交渉は失敗したと報告された[4]。同日の閣議においてヒトラーは総選挙を希望したが、フーゲンベルクはナチ党が大勝して国家人民党の政権内での影響力が低下する恐れがあることから総選挙を嫌がり、共産党を禁止してその議席を剥奪することでナチ党と国家人民党で過半数を得るべきと主張した。しかし結局ヒトラーが押し切って総選挙が行われることになった[2][5]

2月1日にヒトラーの要請でヒンデンブルク大統領は国会を解散した[6]
各党の選挙戦
ナチ党

ナチ党の選挙戦は党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスが指揮を執った。政権に就いたナチ党は今や国家組織や国庫を使っての選挙戦を展開できるようになっていた。ゲッベルスも今回の選挙が野党だった頃の選挙とは条件がまるで違うことを認識し、2月3日の日記で次のように書いている。「我々は国家組織を動員できるようになったので運動は容易である。新聞とラジオは意のままである。我々は政治宣伝の傑作を創るつもりだ。金は有り余っている」[7]

当時のドイツではラジオ局は政府の監督下にあったため、野党の頃のヒトラーの声が電波で流されたことは一度もなかったが、この選挙からラジオはナチ党の有力な宣伝機関となった[7]。ただ集会でのヒトラーの演説をラジオでそのまま流すと興奮しすぎで場違い感があり、ヒトラーもそれについて「私はラジオ受けが良くないようだ」と嘆いていた。ゲッベルスはラジオ担当者とともにヒトラーの声を研究して様々な方法で編集して声質に柔らかさと深みを加えたり、場所によっては明瞭・決然と響くよう調整した[7]

また全国向け・管区向けの遊説隊の編成、特別選挙集会、目引くポスターや突撃隊のパレード、機関紙号外、党旗や横断幕での「シンボル操作」、飛行機を使っての何百万枚のビラ撒き、スピーカー付き宣伝カーなど、これまでの選挙で培った手法も総動員した。ナチ党の選挙スローガンはこれまで通り「ボルシェヴィズムと闘え」と「国民にパンと職を」の2つだった[8]

2月4日にはヒトラーはシュライヒャー内閣下で準備されていた集会や新聞を制限し、政党への寄付を禁止する「ドイツ民族保護のための大統領令」をヒンデンブルク大統領に発令させ[9]、野党の行動の自由を奪った[10]


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