1932年11月ドイツ国会選挙
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団結力や求心力を落としたナチ党内では離党する党員が急増しており、党への寄付や党員費も大きく減少し、パンフレットやプラカードの費用を賄うことすら困難になった[15]。残った党員も積極的な選挙参加の意志が見られず、集会場を埋める事ができないことが増えた。特に突撃隊は武装蜂起を求める立場から選挙運動を拒否する部隊が多かった[13]

選挙戦中の11月3日からベルリンの交通労働者がナチ党と共産党の共闘に支えられてストライキを開始するという異例の事態が発生した。事の起こりはベルリン交通会社が不況のため労働者の賃金低下を労働組合に要求したことだった。組合側はこれを拒否し、ストライキを行うかどうか組合員の投票にかけたが、組合規則で必要とされた四分の三の多数は得られなかった。組合指導部はストライキを断念し、調停委員会に付託しようとしたが、組合の中の共産党派はそれに反発して独断で違法ストライキを決行。共産党はナチ党にもストへの参加を呼びかけ、ナチ党が参加を決断をしたという経緯だった[7]

この決断は労働者票を獲得しようというナチ党ベルリン大管区指導者ゲッベルスの独断だった。ヒトラーは共産党との共闘に困惑していたが、正式なストライキ否定はしなかった[16][# 4]。しかし共産党との共闘はブルジョワ層にナチ党への強い不信感を引き起こし、反社会主義・反共キャンペーンを熱心に行う国家人民党へブルジョワ層の支持が流れていく効果をもたらした[15]。そのため、投票前日までナチ党は死に物狂いの募金活動を行なわなければならなかった[# 5][18]。さらにパーペンはこの違法ストライキについて「国民全体に対する犯罪」行為であるとして激しく非難、今後、国家の治安を乱すものには断固たる態度で対処することをラジオで演説した。この混乱は選挙前日の11月5日まで収まる事はなかった[17]
選挙結果1932年11月6日のドイツ国会選挙 の投票用紙

1932年11月6日の選挙の結果、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)は第一党を維持したものの、前回選挙に比べて得票200万票減らし、得票率も33.1%に後退した(前回選挙は37.3%)。議席は34議席減って196議席となった[19][13]。これまで躍進につぐ躍進を遂げてきたこの党にとっては大きな蹉跌となった[20][# 6]。ナチ党が特に得票を減らした地域は東部ドイツの農業地域、および工業地域の得票だったが、この喪失分は主にドイツ国家人民党(DNVP)、部分的にはドイツ人民党(DVP)へ流れたとみられている[13]

第二の敗者はドイツ社会民主党(SPD)だった。得票率を21.6%から20.4%に落とし、議席数は12議席失って121議席に後退した。特に工業地域で得票を失っており、この喪失分はほとんどが共産党へ流れたと見られている[13]

この選挙の最大の勝者となったのはドイツ共産党(KPD)だった。得票率を2.5%も増加させ、首都ベルリンでは投票総数の31%を獲得して第一党となった[22]。今や共産党は社民党に迫る100議席を保有する大政党となった。これまで代表をほとんど送っていなかった農業地域でも支持を獲得するようになった[13]

ナチ党と共産党を合わせて半数を超える296議席に達するため、この2つを共に敵に回す政権運営は困難だった。現実的な大連合の組み合わせとして唯一考えられるのはナチ党、国家人民党、中央党バイエルン人民党の連立であったが、アルフレート・フーゲンベルクもパーペンもそれを拒否していたため、この議会状況では議会に立脚した政権運営の実現は困難だった[23]

ナチ党は議席を減らしたとはいえ第1党を確保したことには変わりはなく、国民の極右(ナチ党)と極左(共産党)への二極分化をますます進めたに過ぎず、それまで存在した中産階級諸政党が消滅した事により、増え続ける失業者や共産党員を目の当たりにした資本家たちがナチ党支持へ動かざるを得ない状況となっていった[# 7][24]
諸党の見解

この結果を受けた社会民主党党首ヴェルス11月10日の党委員会において「今年行なわれた選挙を通じて我々は『ヒトラーを倒せ!』を合言葉に戦った。そして5回目においてヒトラーを打ち倒す事に成功したのだ」と語った。しかし、社会民主党左派であるケムニッツ地区委員長カール・ベッヒェルは「わが党が12席失うだけで共産党はわが党を上回る議席を得る事になった。これは共産党が宣伝活動するのに有利な状況だ。もしそうなったらわが党に忠節を守ってきた同志らは国民の意思が共産党に向いているとしてわが党から去ることになるだろう」と語り、警告していた[25]

さらに共産党も同じ結論に達しており、共産党中央委員会は「革命的飛躍」が成し遂げられ、選挙において勝利したと結論付けていた。この点についてはソビエト連邦共産党中央機関紙「プラウダ」でも同様の見解が示された[25]

しかし、「フォス新聞」の論説委員ユリウス・エルバウは異なる見解を示しており、共産党の躍進はヒトラーへの贈り物であり、共産主義の躍進におびえる人々がナチ党を支持することになるだろうと評した[26]

11月8日、パーペンは外国通信社協会において選挙結果について「選挙の結果、政府活動に対する理解が深まり、真の国民的結集が実現する事を期待する。そしてそれが実現した時には私がこれまで強調してきているように人事問題は全て解決するだろう」と述べたが、内相ガイルはこれを弱腰であるとしてパーペンを強く非難、「独裁的政治を行なうに当たり、諸政党が許容するかどうか」協議することをパーペンに求めた[26]

しかし、閣僚は一人たりともガイルを支持しなかった。さらにキング・メーカーであった国防相クルト・フォン・シュライヒャー将軍は憲法修正作業を延期して各党と協議することを提案、これが認められた[26]
選挙後

11月13日、パーペンはヒトラーとの面会を行い選挙後の「情勢について語り」あった。しかし、ヒトラーはここで多くの条件を掲げたため、合意することはなかった。さらにシュライヒャーもパーペンを無用と判断、辞職を迫った[27]

結局、11月17日にナチ党・社民党・共産党のいずれからも支持を得られないフランツ・フォン・パーペン首相は辞職した。しかし後任の首相がすぐに決まらず、12月3日までパーペンが首相代行を続けた[19]。ヒンデンブルクは国会の第1党を占めるナチ党のヒトラーにパーペンとの和解(=パーペン内閣の副首相就任)を求めたが、ヒトラーは首相職以外受ける気はないと拒否した。結局この後、ヒンデンブルクはシュライヒャーを首相に任命して「大統領内閣」を続けたが、ナチ党も社民党も共産党もシュライヒャーを支持せず、すぐに進退きわまった。シュライヒャーは、国会を解散して選挙日を定めずにそのまま国会を事実上停止して軍部独裁政治へ移行することを、1933年1月23日に企図したが、ヒンデンブルクの反対で失敗した[28]。そしてヒンデンブルクは1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなるのである[29]


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