1932年の政治
[Wikipedia|▼Menu]
3月1日 - 満州国建国宣言。執政愛新覚羅溥儀

3月5日 - 團琢磨三井合名会社理事長、三井銀行本店の玄関前で血盟団員の菱沼五郎に暗殺される(血盟団事件)。

3月11日 - 血盟団の井上日召が自首。

3月16日 - 中橋徳五郎内相、病気のため辞任。犬養首相が兼務。

3月18日 - 第61議会召集。

3月20日 - 第61臨時議会開院式。

3月25日

第61臨時議会閉院式。

内務大臣に鈴木喜三郎


3月31日 - 古賀清志海軍中尉と中村義雄海軍中尉が犬養首相らの襲撃・暗殺に関する第一次実行計画を作成。

4月上海天長節爆弾事件直前の要人。左から白川義則大将、重光葵公使、野村吉三郎中将。

4月13日 - 独、ナチス党突撃隊親衛隊を禁止する大統領命令。

4月23日 - 独、各州で地方選挙実施。ナチス党はバイエルン州を除き、全ての州議会で第一党に躍進[3]

4月23日 - クルト・フォン・シュライヒャー将軍、ヒトラーと秘密会談。

4月29日 - 上海天長節爆弾事件白川義則上海派遣軍司令官、植田謙吉第9師団長、野村吉三郎第3艦隊司令長官、重光葵上海公使らが重傷(5月26日白川大将死去)。

5月五・一五事件犬養毅首相暗殺を伝える東京朝日新聞。犬養の死により、戦前における政党内閣は終焉を迎えた。

5月5日 - 上海停戦協定調印。

5月6日 - 仏大統領ポール・ドゥメール暗殺事件(7日死去)。

5月10日 - アルベール・ルブランが仏大統領に就任。

 5月13日 - 独、ヴィルヘルム・グレーナー将軍が国防相を辞任。兼摂していた内相職には留まる。

5月15日 - 五・一五事件犬養毅首相が首相官邸を襲撃した海軍青年将校らに暗殺される。

5月16日 - 高橋是清蔵相が内閣総理大臣を臨時兼任

5月17日 - 鈴木喜三郎が立憲政友会総裁に選出される。

5月26日 - 犬養内閣総辞職。斎藤内閣成立。

5月29日

日本国家社会党結成(赤松克麿ら)。

新日本国民同盟結成(下中弥三郎ら)。


5月30日 - 独ハインリヒ・ブリューニング首相辞任。ブリューニング内閣総辞職[4][5]

6月独フランツ・フォン・パーペン内閣。「男爵内閣」と仇名されドイツ国内では不人気であり[6][7][8]、主要各党の支持も得られなかった。

6月1日 - パウル・フォン・ヒンデンブルク独大統領、フランツ・フォン・パーペンを首相に任命する[9]

6月3日 - クルト・フォン・シュライヒャー国防相、ヒトラーと会談し協力を要請。ヒトラーは拒否。

6月4日 - ドイツ国会(ライヒスターク)解散。

6月15日 - ボリビアパラグアイ宣戦布告チャコ戦争勃発。

6月24日 - シャム王国(タイ王国)でクーデター立憲革命)が起こり、立憲君主制に移行。

7月

7月5日 - ポルトガルアントニオ・サラザール内閣成立。

7月20日 - 独パーペン内閣、プロイセン社会民主党を大統領緊急命令で転覆(プロイセン・クーデター)。

7月25日 - ソ連・ポーランド不可侵条約調印。

7月31日 - 1932年7月ドイツ国会選挙ナチス党が230議席を獲得し第一党となる[10]

8月

8月5日 - クルト・フォン・シュライヒャー国防相、ヒトラーと会談し副首相としてパーペン内閣への入閣を要請。ヒトラーは拒否[11][12][13]

8月13日 - ヒトラー、パーペン首相、ヒンデンブルク大統領と相次いで会談。副首相として入閣を求められるが、拒否。

8月22日 - 第63臨時議会召集。

9月

9月12日 - ドイツ国会本会議でパーペン内閣不信任案可決。パーペン首相は大統領命令により国会を解散する。

9月19日 - 日満議定書調印。

10月

10月4日 - ハンガリーゲンベシュ・ジュラ内閣成立。

10月30日 - 熱海の共産党会議で一斉検挙(熱海事件)。

11月

11月6日 - 1932年11月ドイツ国会選挙ナチス党は第一党を維持するが196議席に後退[14][15][16][17]共産党が11議席増の100議席を獲得。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef