1932年11月ドイツ国会選挙
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1932年11月ドイツ国会選挙

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1932年11月6日
→ 1933年3月


内閣パーペン内閣
解散日1932年9月12日
改選数584議席
選挙制度比例代表制
有権者20歳以上のドイツ国民
有権者数44,374,085人


 第1党第2党第3党
 
党首アドルフ・ヒトラーオットー・ヴェルス
アルトゥール・クリスピン
ハンス・フォーゲルエルンスト・テールマン
政党国民社会主義ドイツ労働者党ドイツ社会民主党ドイツ共産党
党首就任1921年7月28日1919年1925年10月
前回選挙230議席
37.27%133議席
21.58%89議席
14.32%
獲得議席196議席121議席100議席
議席増減34議席12議席11議席
得票数11,737,395票7,251,690票5,980,614票
得票率33.09%20.43%16.86%
得票率増減4.18%1.15%2.54%

 第4党第5党第6党
 
党首ルートヴィヒ・カースアルフレート・フーゲンベルクハインリヒ・ヘルト
政党中央党ドイツ国家人民党バイエルン人民党
党首就任1928年9月1928年1924年6月27日
前回選挙75議席
12.44%37議席
5.91%22議席
3.23%
獲得議席70議席52議席20議席
議席増減5議席15議席2議席
得票数4,230,545票3,792,563票1,206,247票
得票率11.93%8.34%3.09%
得票率増減0.51%2.43%0.14%

選挙区別の結果各選挙区での最多得票政党とその得票率群および独立市別の結果

選挙前首相

フランツ・フォン・パーペン
(大統領内閣)
選出首相

無し
(まもなくシュライヒャーが首相就任)


1932年11月6日のドイツ国会選挙(:Reichstagswahl vom 6. November 1932)は、1932年11月6日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。
背景

1932年7月31日の総選挙では国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)が大勝して第一党に躍進したが、同年8月13日に行われたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領とアドルフ・ヒトラーの交渉は、提示された副首相のポストにヒトラーが満足しなかったために決裂した[1]。この決裂はナチ党内に大きな失望を広げた。突撃隊(SA)を中心に武装蜂起を求める声も高まった[2]

9月12日には国会が開会されたが、ドイツ共産党(KPD)のエルンスト・トルグラー(ドイツ語版)が、ヒンデンブルク大統領の「大統領内閣」の首班であるフランツ・フォン・パーペン首相の不信任案の緊急動議を提出したために議事が進まなかった[# 1]。このため中央党は国民社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)へ不信任案の否決に協力するよう求めたが、ナチ党はこれを拒否、アドルフ・ヒトラーは本来、反共主義者だったが、パーペン内閣を追い落とすために共産党に同調するよう指示した[# 2][4][5]首相パーペン(左側で立っている人物)の抗議を余所見して聞き流す議長ゲーリング(右側で立っている人物)、1932年9月12日

このため、パーペンは不信任案の審議に入るならばヒンデンブルク大統領の許可を得ていた大統領命令による国会解散命令を使用して不信任案を拒否、国会解散へ持ち込むつもりであった。しかし、パーペンが発言を求めると議長ヘルマン・ゲーリングはこれに気づかぬふりをして不信任案の審議を進めた。そこでパーペンは怒りで顔を青白くして命令書を掲げて叫んだが結局、不信任案は賛成512票、反対42票という圧倒的多数で可決された[6][7][8]

パーペンは可決された後に議長席へ解散命令の書類を置いたが、ゲーリングは当初これを無視した上に不信任案が可決された内閣の構成員の署名入り書類は無効であるから受理できないとして嘲笑した[# 3]。結局、大統領主導による内閣が国民の支持を失っていることが明らかになった[10]

9月14日、パーペンはヒンデンブルクより許可を得ていた国会抜きの政権運営について閣僚らに説明を行なうためにノイデックで閣議を開いた。しかし、司法相フランツ・ギュルトナー、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、労働相ヒューゴ・シェッファーらがこれを拒否、農相のマグナス・フォン・ブラウン(ドイツ語版)、経済相ヘルマン・ヴァルムボルト(ドイツ語版)は曖昧な態度を取った[9]。さらにナチ党と中央党がヒンデンブルクを憲法違反の疑いで告訴する計画を立てていたため、パーペンは国会抜きの政権運営を断念、選挙は11月6日と決定された[11]

ヒトラーはこの解散に我れを忘れるほど有頂天であったが、ナチ党が共産党と組んだ事が選挙に良くない影響を与えるとグレゴール・シュトラッサーフリックらは考えていた[12]
選挙戦

度重なる選挙であったため、全国に疲労感が漂う選挙戦となり、投票率も前回より低くなった[13]

特に8月13日の交渉失敗の幻滅感を引きずるナチ党の疲労感は大きく、その状況についてナチ党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスは日記に「何度も行なわれる選挙のために皆、神経質になり疲労し切っていた。」[12]、「その前の選挙で票を入れた人たちは党が権力に付けばすぐにもお返しがあると思い込んでいた。ところが党はそれまでより権力から遠のいたように見えたので離れていった」と記している[14]

団結力や求心力を落としたナチ党内では離党する党員が急増しており、党への寄付や党員費も大きく減少し、パンフレットやプラカードの費用を賄うことすら困難になった[15]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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