1932年のメジャーリーグベースボール
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1932年のできごとを記す。

1932年4月11日に開幕し10月2日に全日程を終え、ナショナルリーグシカゴ・カブスが3年ぶり13度目のリーグ優勝を、アメリカンリーグニューヨーク・ヤンキースが4年ぶり7度目のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズはニューヨーク・ヤンキースがシカゴ・カブスを4勝0敗で破り4年ぶり4度目のシリーズ制覇となった。

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できごと

アメリカンリーグは、1928年以来優勝から遠ざかっていたニューヨーク・ヤンキースが107勝を上げて、監督就任2年目のジョー・マッカーシーのもとでは初の優勝となった。2年前に元投手のボブ・ショーキーをミラー・ハギンス監督の後任にすえたが、3位に終わって解任したオーナーのジェイコブ・ルパートGMエド・バローは1929年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させ、翌年にオーナーのリグレーに解任されたジョー・マッカーシーを招いて、1931年は2位だったがようやく宿願を達成した。2位のアスレチックスとの差は13ゲーム差で前年は13.5ゲーム差でアスレチックスの優勝だったが、この年はヤンキースがほぼ同じゲーム差でひっくり返した。打線はベーブ・ルースとルー・ゲーリッグが健在で、ルースは打率.341・本塁打41本・打点137、ゲーリッグは打率.349・本塁打34本・打点151で、申し分ない成績だったが、ジミー・フォックス (アスレチックス)に本塁打58本・打点169でタイトルを取られ(リーグMVPも獲得)、デール・アレクサンダー(タイガースからレッドソックス)の打率.367に及ばず、無冠に終わった。しかし投手陣は世代交代が進み、前年レッドソックスから獲得したレッド・ラフィング(この年に最多奪三振を記録した)やマイナーから昇格したレフティ・ゴメス(レフティ・ゴーメッツとも呼ばれる)が前年から頭角を現し、ビル・ディッキー捕手とともにバッテリーが強化されたことが、4年ぶりのリーグ優勝につながった。

ナショナルリーグは、カージナルスが7位に転落してシカゴ・カブスが90勝を上げて優勝したが、この年の8月2日の試合終了後にカブスの監督(選手兼任)のロジャース・ホーンスビーが突然行方不明となり、やむを得ずグリム一塁手が指揮を取って、シーズンを終えた。それでもカブスが優勝した。原因は球団オーナーのビル・ペッグと選手の使い方についての考え方の違いから衝突して姿をくらましたのだが、彼は監督を解任されて、翌年古巣のセントルイス・カージナルスに選手として戻った。

こうしてワールドシリーズはヤンキース対カブスとなり、ジョー・マッカーシー監督は3年前カブスの監督としてリーグ優勝したので古巣との因縁の戦いとなったが、結果は4勝0敗でヤンキースが圧勝した。このシリーズはルー・ゲーリッグが大活躍し打率.529・打点9・本塁打3本でストレート勝ちに貢献し、また第3戦でベーブ・ルースが右中間を指でさして後に予告本塁打として有名になった場面があった。

アメリカンリーグの本塁打王となったジミー・フォックス はこの年に58本打ったが、この58本は右打者としては最高の本塁打数として長く記録として残り、カージナルスのマーク・マグワイア(70本)とサミー・ソーサ(65本)が熾烈な本塁打争いをした1998年にこの2人が66年ぶりに右打者の最多本塁打数を更新した。なおフォックスは1929年から1940年まで12年連続30本以上の本塁打を打ち、本塁打王を4回獲得して通算534本で1930年代を代表するホームランバッターである。またアスレチックスはジミー・フォックス が3番でアル・シモンズが4番を打ち、シモンズは、1929年に打点王、1930年・1931年は2年連続首位打者を獲得しており、この年は最多安打を記録していた。この強力打線の3・4番コンビだったが、コニー・マック監督はシーズン終了後に資金難からシモンズをホワイトソックスに放出し、3年後にはフォックスも放出するなど荒療治をした結果アスレチックスの凋落を招いた。

ナショナルリーグではジャイアンツのメル・オットが38本で初の本塁打王となったが以降1942年まで本塁打王を6回獲得し通算511本打って、これも1930年代を代表するホームランバッターとなった。左打者の彼の打法は打つ前に右足を高く上げる一本足打法である。そして同じ38本で本塁打王を分け合ったのはフィリーズのチャック・クラインで、前年に続き3度目の本塁打王になると共に、この年盗塁20でナショナルリーグの盗塁王も獲得し、リーグMVPにもなった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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