1930年ドイツ国会選挙
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1930年ドイツ国会選挙

1928年5月 ←
1930年9月14日
→ 1932年7月


内閣ブリューニング内閣
解散日1930年7月18日
改選数577議席
選挙制度比例代表制
有権者20歳以上のドイツ国民
有権者数42,982,912人


 第1党第2党第3党
 
党首オットー・ヴェルス
アルトゥール・クリスピンアドルフ・ヒトラーエルンスト・テールマン
政党ドイツ社会民主党国民社会主義ドイツ労働者党ドイツ共産党
党首就任1919年1921年7月28日1925年10月
前回選挙153議席
29.8%12議席
2.6%54議席
10.6%
獲得議席143議席107議席77議席
議席増減10議席95議席23議席
得票数8,575,244票6,379,672票4,590,160票
得票率24.53%18.25%13.13%
得票率増減5.23%15.69%2.51%

 第4党第5党第6党
 
党首ルートヴィヒ・カースアルフレート・フーゲンベルクエルンスト・ショルツ(ドイツ語版)
政党中央党ドイツ国家人民党ドイツ人民党
党首就任1928年9月1928年1929年
前回選挙61議席
12.1%73議席
14.2%45議席
8.7%
獲得議席68議席41議席30議席
議席増減7議席32議席15議席
得票数4,127,000票2,457,686票1,577,365票
得票率11.81%7.03%4.51%
得票率増減0.26%7.22%3.97%

選挙区別の結果群および独立市別の結果

選挙前首相

ハインリヒ・ブリューニング
中央党選出首相

無し(ブリューニングが引き続き首相)


1930年9月14日のドイツ国会選挙(:Reichstagswahl vom 14. September 1930)は、1930年9月14日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチ党)が第2党に躍進した選挙。
解散の経緯

ハインリヒ・ブリューニング首相が1930年7月16日に出した人頭税を盛り込んだ財政改革案は批判を高め、ドイツ社会民主党(SPD)・ドイツ国家人民党(DNVP)・ドイツ共産党(KPD)・国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)など広範な政党の反対を受けて国会で否決された。ブリューニングはパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させて国会を無視して同法を強制的に公布、国会に立脚しない「大統領内閣」へのルビコンを渡った。これに対抗して社民党は7月18日に緊急令廃止動議を国会に提出して可決させたが、ブリューニングは同日のうちに大統領国会解散命令によって国会を解散した[1][2]
選挙戦

緊急令廃止動議の投票の際、国家人民党内の親政府派のクーノ・フォン・ヴェスタープ伯爵とゴットフリート・トレヴィラーヌス(ドイツ語版)らのグループが党首アルフレート・フーゲンベルクに造反して反対票を投じており、これにより同党の分裂が決定的となり、およそ半数の議員が離党して1930年7月23日に保守人民党(ドイツ語版) (KVP)を結成した。この党はブリューニング首相から未来の与党と期待されて支援を受けた[3]。また国家人民党支持層のうち一定がキリスト教国家農民及び農村住民党(CNBL)や1929年結成のキリスト教社会人民奉仕(CSVD)など保守的小政党群に流れた[4]

それ以上に深刻なのはリベラル中道勢力であり、彼らの退潮は明白だった。選挙を前に中道政党を一本化する機運が高まり、ドイツ民主党(DDP)党首エーリヒ・コッホ=ヴェーザー(ドイツ語版)は、ドイツ人民党(DVP)の党首エルンスト・ショルツ(ドイツ語版)と党を合同する交渉を重ねたが、合意に至らなかった。しかし民主党は青年ドイツ騎士団(ドイツ語版)とは合併交渉をまとめ、ドイツ国家党(DStP)と改称して選挙に臨むことになった[5]

ナチ党は突撃隊の内紛を抱えていた時期であり、8月1日には突撃隊総司令官フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンが突撃隊員を国会議員候補者名簿に加えるよう要求するもアドルフ・ヒトラーが拒絶し、ザロモンが辞職した。8月27日にはベルリン突撃隊のヴァルター・シュテンネスらがベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスに対して反乱を起こした。ゲッベルスは親衛隊を導入して反乱を鎮圧しようとしたが、失敗。9月1日にはヒトラーが自らベルリンを訪れてシュテンネスと会見し、選挙前に騒動を起こすのをやめるよう直接説得してひとまず混乱を抑えた[6]

しかしナチ党は有利な選挙戦を展開した。まず1929年以降に党員が急増していたことがある。彼らは経済的苦境に置かれている階層が多かったにもかかわらず献身的にナチ党のために物質的犠牲を払ったので党の財政は拡大していた[7]。またナチ党は他党と比べて宣伝戦が宣伝全国指導部のもとに中央集権化されている党だった点でも有利だった。同党宣伝全国指導者ヨーゼフ・ゲッベルスが全国の選挙戦の指揮を執ったが、彼は他党の何倍にもあたる数の党集会を組織することを心掛けた。野外演奏会や突撃隊の行進、共同の協会詣、手紙作戦、パンフレット配布などを行って人々の関心を引き付けた。またこれまで一般的でなかった政治宣伝映画に目を付け、アメリカの20世紀フォックス社の技術提供を受けて、当時のドイツの技術力では困難だった野外でのサウンド映画を可能にして政治宣伝映画を盛んに放映した。宣伝内容もヤング案反対や公的生活に特殊利害が蔓延してることへの批判など全国民から幅広く共感を得やすい問題を一点集中で取り扱うようにし、意見が分かれる反ユダヤ主義宣伝は「ユダヤ人の経済支配」を批判する訴えにとどめた[8]

社会では世界恐慌による不況で「資本主義の失敗」が叫ばれており、こうした盲目的な反資本主義思想は国家主義や反ユダヤ主義と結びつきやすく、これがナチ党の「民族共同体」のスローガンに大きな魅力を与えることになった[9]。特に若年層がナチ党や共産党など急進的反対党を支持し、一方社民党やブルジョワ諸政党は高齢化が深刻化していた[10]

また豊かでない農村地域では急進的反対派が形成され、国家人民党の農業を基盤とする有権者層解体とナチ党の農業組織の進出が起こった[11]


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