1930年の野球
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1930年のできごとを記す。

1930年4月14日に開幕し10月8日に全日程を終え、ナショナルリーグセントルイス・カージナルス2年ぶり3度目のリーグ優勝を、アメリカンリーグフィラデルフィア・アスレチックスが2年連続8度目のリーグ優勝を飾った。

ワールドシリーズはフィラデルフィア・アスレチックスがセントルイス・カージナルスを4勝2敗で制し、2年連続5度目のシリーズ制覇となった。

1929年のメジャーリーグベースボール - 1930年のメジャーリーグベースボール - 1931年のメジャーリーグベースボール
できごと

ナショナルリーグはセントルイス・カージナルスが20勝投手が不在ながら、投手以外の野手8人が3割以上の打率で、チーム打率.314という猛打でしかも総得点1004で優勝した。前年の覇者シカゴ・カブスは2ゲーム差での2位であった。一方前年のシリーズを制覇したアメリカンリーグのフィラデルフィア・アスレチックスは投の両輪レフティ・グローブ とジョージ・アーンショーが健在で、特にグローブはこの年に最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手三冠王に輝いた。打ではアル・シモンズ、ミッキー・カクレーン、ジミー・フォックスが活躍し、アル・シモンズが打率.381で首位打者を獲得した。 

ワールドシリーズでは、アスレチックスのグローブが2勝、アーンショーも2勝を上げ、シリーズ2連覇となった。この頃はヤンキースの黄金時代からアスレチックスの黄金時代に移っていた。しかしコニー・マック監督にとっては最後のシリーズ制覇で、この後にアスレチックスがワールドシリーズを優勝するのは42年後の1972年である。

この年のナショナルリーグの本塁打王ハック・ウィルソンは当時のナショナルリーグ記録となる本塁打56本を記録した。そして打点191も記録し、これはルー・ゲーリッグが1927年に記録した打点175を上回るメジャーリーグ記録であった。1926年(21本)、1927年(30本)、1928年(31本)で3年連続本塁打王となり、前年の1929年は39本打ちながら43本のチャック・クラインに及ばず、しかしこの年1930年の56本で計4度目の本塁打王、打点は2年連続の打点王であった。当時「ナショナルリーグのベーブ・ルース」と呼ばれるほどの人気があったが、これ以後成績は急降下し4年後には引退した。

ナショナルリーグの首位打者はニューヨーク・ジャイアンツビル・テリー。打率.401で、これはナショナルリーグの最後の4割打者となった。ビル・テリーはこの2年後にジョン・マグローの後任監督となった。

前年の1929年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させたジョー・マッカーシー監督は、この年のシーズン終盤に優勝を逃すと、球団はマッカーシーを解任した。一方、アメリカンリーグのニューヨーク・ヤンキースは、前年の1929年のシーズン末にミラー・ハギンス監督が急死した後にボブ・ショーキーを監督に就任させたが、この年3位に終わってオーナーのジェイコブ・ルパートと、GMエド・バローはわずか1年でショーキーを解任し、1929年にシカゴ・カブスをリーグ優勝させたジョー・マッカーシーに白羽の矢を立てた。マッカーシーはメジャーリーグでの選手経験の無い監督で、当時はタイ・カッブ、トリス・スピーカー、ロジャース・ホーンスビーなど大選手の兼任監督か、引退後の監督就任が多かった。しかしルパートとバローはベーブ・ルースの兼任監督を嫌い、カブスを解任されたばかりのマッカーシーを監督に招くことに決めた。マッカーシーは、翌1931年から1946年までヤンキース監督を務め、16年間でリーグ優勝8回、ワールドシリーズ優勝7回というヤンキース黄金時代を築いていった。

ジョー・シーウエル

10年前の1920年の8月にクリーブランド・インディアンスのレイ・チャップマン遊撃手が対ヤンキース戦でカール・メイズ投手が投げた球を頭部に受けて昏倒し、翌朝死去した事件があったが、この事件はインディアンスの選手を奮起させて、リーグ優勝とワールドシリーズ制覇につながったとされている。そしてもう一つ忘れてならないのは、亡くなったチャップマンの代わりに窮余の策として当時のトリス・スピーカー監督がマイナーから引き上げた選手がジョー・シーウェルで、スピーカー監督が驚くほど意外にシーウェルは活躍し、そしてそれからレギュラーで10年間インディアンスの遊撃手として出場したことであった。鋭い選球眼を持ちバットコントロールが巧みで、三振の少ない選手であった。1923年に打率.353で打点109をマークしタイトルには届かなかったが、1925年から9年連続で三振が一桁台であり1929年にはフル出場で三振4、そして115試合連続無三振という記録を打ちたてた。1922年から連続試合出場を続け、この1930年の途中1103試合連続出場までいってメジャーリーグ記録(エベレット・スコットの1307試合)に近づいたが惜しくもこの年の途中でヤンキースへトレードされて出番がなく、連続試合記録は途絶えた(この記録は1932年に同じチームになったルー・ゲーリッグに破られた)。


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