1929年の野球
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1929年のできごとを記す。

1929年4月16日に開幕し10月14日に全日程を終え、ナショナルリーグシカゴ・カブスが11年ぶり12度目のリーグ優勝、アメリカンリーグフィラデルフィア・アスレチックスが15年ぶり7度目のリーグ優勝を飾り、以後1931年まで3連覇した。

ワールドシリーズはフィラデルフィア・アスレチックスが4勝1敗でシカゴ・カブスを破り4度目のシリーズ制覇となった。

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できごと

アメリカンリーグは、前年までに3連覇したヤンキースが2位に落ち、フィラデルフィア・アスレチックスが優勝した。投手で両輪とされたレフティ・グローブが20勝、ジョージ・アーンショーが24勝(年間最多勝)を上げ、ミッキー・カクレーンジミー・フォックスアル・シモンズ、ビル・ミラー、ミュール・ハ-スの5人が3割を打ち、これにジミー・ダイクスやこの年が最後のシーズンとなったジョージ・バーンズらが猛打を振るい、チーム打率.296はヤンキースの.295を僅かに上回った。2位に終わったヤンキースはベーブ・ルースが46本で本塁打王に輝いた以外は、ゲーリッグが不調で打率.300そこそこに終わり無冠に終わった。しかも最悪の事態がシーズン終了直前に起こった。

ナショナルリーグは、1926年に監督に就任したジョー・マッカーシー(後にヤンキース監督に就任する)のもとで、この年に獲得したロジャース・ホーンスビーが打率.380、外野手のステファンソン(打率.362)、カイカイ・カイラー(打率.360・盗塁43でこの年盗塁王)、ハック・ウィルソン(打率.345・本塁打39本、彼は翌年56本を打った)で外野手3人が猛打を振るい、投手陣でマローン22勝、ルート19勝、ブッシュ18勝を上げて、シカゴ・カブスが久々のリーグ優勝を果たした。

そしてワールドシリーズ第1戦で、アスレチックスのコニー・マック監督が先発にグローブやアーンショーではなく、シーズン13勝止まりで途中から戦列を離れていたハワード・エームケ(アームキー)を登板させ、この誰も予想していなかったエームケが好投して一気にカブスを圧倒した。

ビル・ディッキー

そのヤンキースに前年入団したビル・ディッキーが2年目のこの年に打率.324を打ち、捕手のポジションを確保した。この新しいキャッチャーはその後打率3割を13回記録し、第2期黄金時代となる1936?1939年のワールドシリーズ4連覇の時期には4年連続20本塁打・100打点以上の強打ぶりを発揮して、同時代に活躍したアスレチックスのミッキー・カクレーンと並ぶ名捕手とされ、カクレーンの師だったコニー・マック監督は後にディッキーを歴代最高の捕手に選んでいる。


レフティ・オドール

ナショナルリーグの首位打者はフィラデルフィア・フィリーズレフティ・オドールで打率.398。もう少しで4割打者になるところであったし、安打数254本はナショナルリーグ最多安打記録であり、現在においてもイチロー、ジョージ・シスラーに次いで史上3位の記録である。オドールが活躍した期間はこの1929年から2度目の首位打者を獲得した1932年までで短いものであった。しかし後に日本の野球界にとっては大きな存在となり、日本のプロ野球の歴史に残った。


ミラー・ハギンス

1920年代に6回リーグ優勝し、3回のシリーズ制覇を成し遂げたミラー・ハギンス監督は、この年も指揮を取ったが、目の下のできものから丹毒とされて、9月19日に監督の交代があり、その6日後9月25日に急死した。

1904年にシンシナティ・レッズに上がり1910年からカージナルスに移り、1913年から1916年まで選手兼任監督で1917年にカージナルス監督になったが翌1918年にニューヨーク・ヤンキースに招かれた。これは次の監督を探していたオーナーのルパートがアメリカンリーグ会長のバン・ジョンソンに相談し、会長の薦めで抜擢したものだった。ジョンソンはその時にカージナルス監督としての実績とホーンスビーを育てた彼の手腕を高く評価していた。ジャイアンツ監督のマグローのカリスマ性は無くてもシンシナティ大学法学部を卒業したその知性を武器に抜け目のない采配と選手起用の巧みさで、ヤンキース監督に就任して2年目に3位に躍進してから「ヤンキース王朝」とも「ヤンキース帝国」とも呼ばれた輝かしい歴史が始まった。


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