1928年アムステルダムオリンピック
テニスのオリンピック復帰はアマチュア規定が除外された1988年ソウルオリンピックとなった(オリンピックのテニス競技参照)。
開会式ではギリシャが先頭、開催国(オランダ)が最後に入場する形式が採用され、現在まで継続している。
ドイツ(ヴァイマル共和政)は第一次世界大戦の責任を問われて過去2回のオリンピック参加を拒否されており、同大会で1912年ストックホルムオリンピック以来の復帰を果たした。
フィンランドのパーヴォ・ヌルミは陸上の男子10000mで優勝し、彼自身最後となる9個目の金メダルを獲得した。
アメリカ合衆国のジョニー・ワイズミュラーは水泳の100m自由形と4×200m自由形リレーの2種目で金メダルを獲得した。前回のパリ大会と合わせ5個の金メダルを獲得したワイズミューラーは翌年にモデル・映画俳優へ転向し、後にターザン映画で人気を得た。
インド(イギリス領インド帝国)は2大会ぶりに行われた(男子)ホッケーで金メダルを獲得した(団体競技で初のアジアチーム優勝)。以後、第二次世界大戦による中断や1947年の完全独立を挟み、オリンピックのホッケー競技では1956年メルボルンオリンピックまでインドは6連覇を果たした。
陸上競技とともに体操でも女子選手の参加が認められた。この体操競技では女子は団体総合のみが行われてオランダが優勝したが[注釈 1]、13選手中ユダヤ人だった3人は第二次大戦中のホロコーストにより1943年にソビボル強制収容所で相次いで死亡した。
当時王太子だったオーラヴ5世はセーリングに出場し金メダルを獲得している。なおノルウェーの金メダルはこれのみだった。
文芸コンクールが同時に行われており、その時の優勝者はポーランドの詩人カジミェシュ・ヴィエジンスキであった[3]。
アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。予算要求の際に13万円を計上していたが、大蔵省が6万円に減額査定を行ったため渡航費が不足。内閣機密費、外務省経費、農林省の馬質改良競馬補助費から充当が行われ、40人分12万円が用意された[4]。
実施競技
陸上競技
競泳
飛込
水球
サッカー
ボート
ホッケー
ボクシング
体操
レスリング
セーリング
ウエイトリフティング
自転車
馬術
フェンシング
近代五種競技
芸術競技(非公式)
公開競技
ラクロス競技
コーフボール競技
Kaatsen競技(en:Kaatsen at the 1928 Summer Olympics)
各国の獲得メダル詳細は「1928年アムステルダムオリンピックのメダル受賞数一覧」を参照順国・地域金銀銅計
1 アメリカ合衆国22181656
2 ドイツ1071431
3 フィンランド88925
4 スウェーデン761225
5 イタリア75719
6 スイス74415
7 フランス610521
8 オランダ(開催国)69419
9 ハンガリー4509
10 カナダ44715
主なメダリスト
金メダル
織田幹雄(日本、陸上男子三段跳)
鶴田義行(日本、競泳男子200m平泳ぎ)
パーシー・ウィリアムズ(カナダ、陸上競技男子100m)
パーシー・ウィリアムズ(カナダ、陸上競技男子200m)
ビレ・リトラ(フィンランド、陸上競技男子5000m)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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