女子800m決勝の後で実施された男子三段跳決勝[5]では、織田幹雄が日本人初の金メダルを獲得し、南部忠平が4位に入賞した[4]。宿舎のあるザンダムに戻ると、子供たちが町の入り口で日の丸を振って出迎え、宿舎のレストランには住民有志から寄せられたユリの花が2カゴ置かれていた[4]。夕食は祝膳となり、この日のために日本から持ち込んだアズキと餅を使って赤飯と雑煮が食卓に並んだ[4]。
全選手が倒れ込んだのを目の当たりにしたことから[5]、アンリ・ド・バイエ=ラトゥール会長は「古代オリンピックに倣い、女子禁制に戻した方がいい」との私見を発表[4]、IAAFの役員らは様々な議論を戦わせた結果[26]、女子800mの継続開催に賛成が9、反対が12で[30]「800mは女子には過酷で健康を害するので除外する」との判断を下した[5]。女子800mは、1960年ローマオリンピックに復活するまでの32年間、実施種目から除外されることとなった[4][5]。
この試合をスタンドから観戦していた野口源三郎は、『第九回オリムピック陸上競技の研究』という本を1929年に上梓した[31]。この中で女子800mの成績が10年前の日本の男子選手と同じくらいだと評し、女子陸上競技の国別ランキングで日本が出場21か国中7位となったことについて、人見を讃えるとともに、近い将来に日本の女性の平均体位をここまで向上させたいものだ、と述べた[32]。女子の陸上競技に反対する国がある一方で、そうした国でも女子の陸上競技は盛んに行われており、女子の特性に応じて適切に行われるのであれば、スポーツとしての価値があるとの意見を表明した[33]。
人見はその後、女子オリンピックから改称した第3回国際女子競技大会(チェコスロバキア・プラハ)など各地の国際大会を転戦し、忙しい合間を縫って講演会をこなした無理が祟り、1931年8月2日に24歳の若さで生涯を閉じた[34]。くしくもアムステルダムオリンピックで銀メダルを獲得してからちょうど3年の日であった[35][36]。人見の次に日本の女子でオリンピックの陸上競技でメダルを獲得したのは1992年バルセロナオリンピックの有森裕子であり、その間64年もかかった[37]。偶然にも人見と有森は同じ岡山市出身である[37]。