1928年ドイツ国会選挙
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1928年ドイツ国会選挙

1924年12月 ←
1928年5月20日
→ 1930年9月


内閣第4次マルクス内閣
解散日1928年3月31日
改選数491議席
選挙制度比例代表制
有権者20歳以上のドイツ国民
有権者数41,224,678人


 第1党第2党第3党
 
党首オットー・ヴェルスクーノ・フォン・ヴェスタープヴィルヘルム・マルクス
政党ドイツ社会民主党ドイツ国家人民党中央党
党首就任1919年1924年1922年
前回選挙131議席
26.0%103議席
20.5%69議席
13.6%
獲得議席153議席73議席61議席
議席増減22議席30議席8議席
得票数9,152,979票4,381,563票3,712,152票
得票率29.8%14.2%12.1%
得票率増減3.8%6.3%1.5%

 第4党第5党第6党
 
党首エルンスト・テールマングスタフ・シュトレーゼマンエーリヒ・コッホ=ヴェーザー(ドイツ語版)
政党ドイツ共産党ドイツ人民党ドイツ民主党
党首就任1925年10月1919年1924年
前回選挙45議席
8.9%51議席
10.1%32議席
6.3%
獲得議席54議席45議席25議席
議席増減9議席6議席7議席
得票数3,264,793票2,679,703票1,479,374票
得票率10.6%8.7%4.8%
得票率増減1.6%1.4%1.5%


選挙後の国会勢力図

選挙前首相

ヴィルヘルム・マルクス
中央党選出首相

ヘルマン・ミュラー
ドイツ社会民主党

1928年5月20日のドイツ国会選挙(:Reichstagswahl vom 20. Mai 1928)は、1928年5月20日に行われたドイツ国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。ヴィルヘルム・マルクス内閣を支持するブルジョワ諸政党が敗北して野党のドイツ社会民主党(SPD)が勝利したため、社民党首班政権のヘルマン・ミュラー内閣が成立することになった。
目次

1 解散までの経緯

2 選挙戦

3 選挙結果

4 選挙後

5 各党の得票と獲得議席

6 この選挙で初当選した著名な議員

7 出典

8 参考文献

解散までの経緯

1928年2月に中央党ドイツ国家人民党(DNVP)・ドイツ人民党(DVP)・バイエルン人民党(BVP)という保守から中道のブルジョワ諸政党の支持を受けていた第4次ヴィルヘルム・マルクス内閣はバーデンの学校の宗教教育問題めぐって分裂し、事実上政権崩壊した[1]

3月14日にはヴィルヘルム・グレーナー国防相の主導で「装甲巡洋艦A」(艦砲や航行距離は戦艦レベルだったが、ヴェルサイユ条約の建前からこの名前にしていた。ポケット戦艦とも呼ばれた)の建造案が国会に提出された。この案はドイツ社会民主党(SPD)とドイツ共産党(KPD)と民主党の反対があったものの国会を通過した。しかし各州の代表からなる参議院(ドイツ語版)では、社民党が政権についているプロイセン州の発言力が大きかったために否決された[2]

結局、1927年補正予算案を処理したのちの1928年3月31日には国会解散となり、装甲巡洋艦A建造費の問題については選挙後の9月に延期された[1]
選挙戦

ドイツ社会民主党(SPD)は装甲巡洋艦A建造費を批判する立場から「装甲巡洋艦より児童給食を!」をスローガンにして選挙戦を戦った[3]。党の指導者の中にはこのスローガンの危険性を感じる者も少なくなかったが、一度始まったキャンペーンを止めることはできなかった[4]

国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP,ナチ党)にとっては党が非合法化されていた時期の偽装政党国家社会主義自由運動(NSFB)から党を引き継いで再建された後の初めての選挙だった。同党のベルリン大管区指導者ヨーゼフ・ゲッベルスも立候補し、『デア・アングリフ』紙上において「我々が国会に入るのは、民主主義の兵器庫の中でその固有の武器を我らの物とするためである。我々はヴァイマル民主主義を、彼ら自身の支援によって麻痺させるために国会議員になるのである」という抱負を掲載している[5]

国家人民党やナチ党、ドイツ中産階級帝国党("WP")など保守・右派陣営は、グスタフ・シュトレーゼマン外相の「和解外交」を批判する選挙戦に終始した[6]

社民党の選挙ポスター

共産党の選挙ポスター(1928年5月)

選挙結果

5月20日の投開票の結果、マルクスを支持する与党が軒並み支持率を落とす中、野党の社民党が躍進した。当時ドイツは好景気であったため、ヴァイマル共和政が肯定的な評価を受け、ヴァイマル共和政を作った社民党が再評価を受けたと言われる[2]

一方、保守・右翼陣営は惨敗した。国家人民党は三分の一近くの議席を失って73議席に落ちた[7]。これは支持層が中産階級帝国党やキリスト教国家農民及び農村住民党などに移行したことなどが原因だった。これがきっかけとなり、国家人民党内ではこれまでの親政府路線に疑義が呈されるようになり、1928年秋には対政府強硬派のアルフレート・フーゲンベルクが党首となったため、同党は再度保守野党の立場へと戻ることとなった[8]

ナチ党も国家社会主義自由運動時代より議席を減らして12議席にとどまった。好景気のもとでは極右には需要はなかった[7]


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