以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1920年のできごとを記す。
1920年4月14日に開幕し10月12日に全日程を終え、ナショナルリーグはブルックリン・ロビンス(後のドジャース)が4年ぶり6度目の優勝を飾り、アメリカンリーグはクリーブランド・インディアンスがアメリカン・リーグに加盟以来初の優勝となった。
ワールドシリーズはクリーブランド・インディアンスがブルックリン・ロビンスを5勝2敗で制し初のワールドシリーズ制覇となった。
1919年のメジャーリーグベースボール - 1920年のメジャーリーグベースボール - 1921年のメジャーリーグベースボール ナショナル・リーグは、ブルックリン・ロビンスが投手でバーリー・グリムズ(23勝)、打撃で外野手ザック・ホィート、一塁手コネッチらが主軸となってチーム打率.277でリーグ優勝となった。一方アメリカン・リーグではクリーブランド・インディアンスが、投手でスタン・コベレスキ(24勝)とジム・バグビー(31勝)がいて、トリス・スピーカーが監督兼外野手として活躍し、リーグ優勝した。優勝した両チームとも打撃部門の個人タイトルを獲得した選手はいなかった。 そしてワールドシリーズは、スタン・コベレスキが3試合に登板し全て完投勝利で3勝を挙げロビンスにわずか2点しか与えず、また第5戦でエルマー・スミスがシリーズ初の満塁ホームランを記録して、クリーブランド・インディアンスが初制覇している。 この年8月16日、ニューヨークのポログラウンズでのヤンキース対インディアンス戦で、ヤンキースのカール・メイズ投手が投げた球がインディアンス遊撃手のレイ・チャップマンの左こめかみに当たり、チャップマンは意識不明となって病院に運ばれたが翌朝死亡した。この時点ではインディアンスが首位で1.5ゲーム差でヤンキースが2位で、首位攻防戦の大事な試合であったが、レッドソックスからトレードされてきたカール・メイズは下手投げのサブマリン投法のピッチャーであり、レイ・チャップマンは好守好走のコンスタントな3割打者でメジャーリーグ11年目の好打者であり、極端に本塁にかぶさって打つクラウチング・スタイルの打法であったことがこの悲劇の事故を生んでしまった。当時は試合に使用するボールの交換がなく、汚れたまま投手が投げていた時代で、打者にとっては試合の後半になると投手が投げるボールが見にくくなっていたことも要因の一つであった。 この事件の直後に、試合中に汚れた球は審判員の判断でいつでも交換が可能になり、目視を難しくさせるボールに細工をする行為の対策が徹底され、またまだ打者の頭部を保護するヘルメットの無い時代であったので、打者の頭部を保護する対策についての議論が始まり、第二次大戦後にヘルメットが普及するまでこの「チャップマンの悲劇」はファンの記憶に残った。 そしてこの悲劇がインディアンスの選手を結束させ、またチャップマンの後釜にマイナーリーグから昇格させたジョー・シーウェル遊撃手(後に殿堂入りする)がトリス・スピーカー監督の予想以上に活躍して、この年はクリーブランド・インディアンスの年となった。なおこの試合にはカール・メイズと同じくレッドソックスから移ってきたベーブ・ルースやレフティ・オドールも出場していた。
できごと
アメリカン・リーグの首位打者には、セントルイス・ブラウンスのジョージ・シスラーが打率.407で首位打者を初めて獲得した。またこの年シーズン安打257本でこれは当時のメジャーリーグ新記録であった。
ベーブ・ルース は12万5000ドルという当時常識外れのトレードマネーでレッドソックスからヤンキースに移籍し、本塁打54本、打点137で本塁打王と打点王を獲得して押しも押されもせぬ大スターとなった。この年のヤンキースは結局3位に終わったが、翌年からアメリカン・リーグを3連覇し、3年目にライバルのニューヨーク・ジャイアンツを破ってワールドシリーズを初制覇して、ヤンキースの黄金時代が到来する。
ナショナル・リーグは、セントルイス・カジナルスのロジャース・ホーンスビーが打率.370で首位打者を、打点94で打点王を獲得し、以降6年連続首位打者となり、その中には4割が3回、三冠王に2回輝くなど1920年代をベーブ・ルースと並んでメジャーリーグを代表する打者となった。
ジョージ・シスラーとベーブ・ルースの影に隠れてしまったのがシューレス・ジョージャクソンでこの年打率.382で打点が自己最高の121を記録したがタイトルは取れなかった。彼は1910年からずっと3割を打ち、この年まで通算打率.356を記録していた。そして彼の球場での姿はこの年が最後となった。
チャップマンの悲劇