1918年米騒動
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1918年米騒動
場所 日本 富山県下新川郡魚津町(現在の魚津市
魚津港ほか富山県東部地域
日付1918年7月22日 - 9月12日
原因米騒動の発生を参照
損害騒動の広がりを参照
動機米の移出の停止と安値販売の要求
対処警察(地域によっては軍隊)が出動して鎮圧。
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1918年米騒動(1918ねんこめそうどう)とは、1918年大正7年)に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件。日本近代史において単に米騒動とした場合は、本事件を指す。
背景 堂島米会所における当時の米相場

第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)はコメ消費量の増大をもたらし、一方では工業労働者の増加、ひいては農村から都市部への人口流出の結果、米の生産量は伸び悩んでいた。1914年(大正3年)の第一次世界大戦開始直後に暴落した米価は約3年半の間ほぼ変わらず推移していたが、1918年(大正7年)の中ごろから上昇し始めた。大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった[1]

米価格高騰を見て、次第に米作地主や米取扱業者の売り惜しみや買い占め、米穀投機が発生し始めた。そのなか寺内正毅内閣1918年(大正7年)8月2日シベリア出兵を宣言した。これは戦争特需における価格高騰を見越した流通業者や投機筋などの、投機や売り惜しみを加速させた。

大阪堂島米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は6月には20円、翌7月17日には30円を超え、さらに伊勢の相場師・福寅一派の買いあおりや地方からの米の出回り減少で、8月1日には1石35円、同5日には40円、9日には50円を超え、各地の取引所で立会い中止が相次ぐ異常事態になった。一方で小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し[2][3](当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となった。

米価暴騰は一般市民の生活を苦しめ、新聞が連日、米価高騰を大きく報じたこともあり、社会不安を増大させた。事態を重く見た寺内正毅内閣総理大臣1918年(大正7年)5月地方長官会議にて国民生活難に関して言及したが、その年の予算編成において、救済事業奨励費はわずか3万5,000円のみであり、寺内の憂慮を反映した予算とはいえなかった。仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し[4]など各物資の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。さらに1918年(大正7年)4月には「外米管理令」が公布され、三井物産鈴木商店など指定七社による外国米の大量輸入が実施されたが、米価は下落しなかった。

このため寺内内閣は警察力の増加をもって社会情勢の不安を抑え込む方針を採り、巡査採用数が増員された[5]。生活苦と厳しい抑圧に喘ぐ庶民の怒りは、次第に資本家、特に米問屋商社など流通業者に向けられるようになっていった。
発生 魚津にて起った米騒動を報道する『富山日報』(1918年(大正7年)7月25日) 米騒動の激化を報ずる『高岡新報』(1918年(大正7年)8月7日)

騒動の発端となった富山県では、1918年(大正7年)「7月上旬」から、中新川郡東水橋町(現・富山市)で「二十五六人」の「女(陸)仲仕たちが移出米商高松へ積出し停止要求に日参する」行動が始まっている[6]

また折りから、魚津港には、北海道への米の積み出しのため「伊吹丸」が寄航していた。当時の新聞によれば「魚津町にては、米積み込みの為客月一八日汽船伊吹丸寄港に際し細民婦女の一揆が起こり狼煙を上げたる」と、魚津町(現・魚津市)で一揆発生は7月18日以来という[7]。さらに「二十日未明同海岸に於いて女房共四十六人集合し役場へ押し寄せんとせしを、いち早く魚津警察署に於いて探知し、解散せしめ」と、魚津の動きが20日未明(おそらく19日夜間)から起きていた報道もある[8]

7月22日の昼には、富山市中長江町ほかで富豪浅田家の施米にもれた細民200名が市役所に押しかけた[9]。このときは警官の説諭によって解散させられたが、住民らは米商店を歴訪するなど窮状を訴えた。

そのころ、東水橋町、富山市、魚津町以外にも、東岩瀬町(28日)、滑川町、泊町(31日)等富山県内での救助要請や、米の廉売を要望する人数はさらに増加し、各地で動きが起きていた[10]。翌月8月3日には当時の中新川郡西水橋町(現・富山市)で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。
全国への波及 8月11日神戸で起きた騒動によって焼き払われた鈴木商店本社

8月10日には京都市名古屋市を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には鈴木商店大阪朝日新聞により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)との捏造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、打ちこわしに発展した。10日夜に名古屋鶴舞公園において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約2万人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市下京区の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。

東京市では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた[11]。しかし、8月10日に宮武外骨を発起人として山本懸蔵ら政治・労働運動弁士による野外演説会を日比谷公園で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにもかかわらず、当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた[11]。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本所近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている[11]。東京市での暴動は、ほかの地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった[11]

こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、8月17日ごろからは都市部から町や農村へ、そして8月20日までにほぼ全国へ波及した。


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