1918年イギリス総選挙
1918 United Kingdom general election
1910年12月 ←
1918年12月14日
→ 1922年
内閣ロイド・ジョージ内閣
庶民院(下院) 全707議席
投票率57.2%
第1党第2党第3党
党首アンドルー・ボナー・ローデビッド・ロイド・ジョージエイモン・デ・
ヴァレラ
政党保守党自由党連立派シン・フェイン党
党首就任1911年1916年12月7日1917年
党首選挙区グラスゴー中央カナーボン自治区クレア東・
メイヨー東
前回選挙271272新党
獲得議席379 *12773
議席増減 108 145 73
得票数4,083,4191,396,590497,107
得票率39.2%13.4%4.6%
得票率増減 7.1% 30.4% 4.6%
第4党第5党第6党
党首ウィリアム・アダムソンハーバート・ヘンリー・アスキスジョージ・ニコル・バーンズ
政党労働党自由党非連立派国民民主労働党
党首就任1917年10月24日1908年4月30日1918年
党首選挙区West FifeEast Fife (defeated)グラスゴー・ゴーバルズ
前回選挙42272議席、40.5%新党
獲得議席573613
議席増減 15 236 13
得票数2,245,7771,388,784197,475
得票率21.5%13.3%1.9%
得票率増減 14.4% 30.5% 1.9%
選挙前首相
デビッド・ロイド・ジョージ
自由党連立派
1918年イギリス総選挙(1918ねんイギリスそうせんきょ、英語: 1918 United Kingdom general election)は、1918年12月14日にイギリスで行われた議会(庶民院)議員の総選挙である。
第一次世界大戦後最初の選挙で、一般にクーポン選挙(The coupon election)として有名[2]。ここでの「クーポン」("Coupon ")とは、デビッド・ロイド・ジョージが連立支持派の候補者に与えた「公認証書」を指す。同時にこの選挙は1900年選挙、1945年選挙と並ぶカーキ選挙である。
背景ハーバート・ヘンリー・アスキスデビッド・ロイド・ジョージ
前回1910年12月イギリス総選挙の結果、自由党が第1党になったものの、保守党と拮抗した。このため自由党は労働党とアイルランド議会党の閣外協力を得てハーバート・ヘンリー・アスキスを首班とする内閣を成立させた。この内閣は大戦中にアイルランド議会党がアイルランド問題に不満を示し始めると不安定化し、アスキスは保守党を引き入れて内閣は挙国一致内閣に変更された。この後ガリポリの戦いや、ソンムの戦いの結果に不満が表れ始めると、敵性資産売却問題を契機に保守党議員の動揺として噴出し、挙国一致内閣の維持が難しくなった。このため自由党の陸相デビッド・ロイド・ジョージはアスキスの追い落としにかかり、自派を率いて保守党と連立し内閣はロイド・ジョージ派と保守党の連立内閣に変更された。この構図のまま休戦日直後に議会は解散された。即ち自由党は連立派であるロイド・ジョージ派と非連立派であるアスキス派に分裂して、8年ぶりの総選挙を戦う事になった。
概要アンドルー・ボナー・ロー
1918年国民代表法(英語版)[3]の制定により成人男子普通選挙が行われ、一部の女子にも選挙権が認められることとなったため、この選挙はイギリス近代選挙の幕開けとされている。これにより、有権者は前回1910年12月の総選挙時のおよそ4倍となった。
戦時中の1918年においては、デビッド・ロイド・ジョージは自由党アスキス派にたいして宥和的だった。休戦協定直後の議会解散のおりでも、自由党の伝統的政策である「自由貿易」「平和」に忠実であると宣言し、最低賃金法の導入や対ドイツ政策も復讐ではなく、自由主義的公正さで対処すると示唆していた。