1912年アメリカ合衆国大統領選挙
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1912年アメリカ合衆国大統領選挙
United States presidential election, 1912

1908年 ←
1912年11月5日
→ 1916年


投票率58.8%[1] 6.6%
 
候補者ウッドロウ・ウィルソンセオドア・ルーズベルトウィリアム・タフト
政党民主党進歩党共和党
出身地域ニュージャージー州ニューヨーク州オハイオ州
副大統領候補者
トーマス・R・マーシャル
ハイラム・ジョンソン
ニコラス・バトラー
獲得選挙人435888
勝利地域数4062
得票数6,296,2844,122,7213,486,242
得票率41.8%27.4%23.2%


州別獲得選挙人分布図
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選挙前大統領

ウィリアム・タフト
共和党選出大統領

ウッドロウ・ウィルソン
民主党

1912年アメリカ合衆国大統領選挙(1912ねんアメリカがっしゅうこくだいとうりょうせんきょ、: United States presidential election, 1912)は、1912年11月5日に行われたアメリカ合衆国大統領選挙(第32回)。3人の有力候補が立ち、そのうち2人は大統領経験者という中で戦われた。

現職大統領ウィリアム・タフト共和党の保守派の支持で党候補に再指名された。元大統領のセオドア・ルーズベルトは共和党の指名獲得に失敗した後、独自に党員集会を招集し新しく進歩党(渾名はブル・ムース党、革新びいき)を創出した。進歩党がルーズベルトを候補者に指名し、主要州でも他の役職に候補者を擁立した。民主党ウッドロウ・ウィルソンは論争の多かった全国大会の46回目の投票で、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンの支持のお陰で候補指名された。ウィルソンは、一般選挙での得票率は42%に過ぎなかったがタフトとルーズベルトを上回り、選挙人選挙では圧倒的な勝利を得た。民主党員が大統領に選ばれたのは1892年から1932年の間ではウィルソンだけである。また1856年から1932年の間でもわずか3人しか選ばれておらず、その3人目だった。この選挙は選挙人選挙で第3の政党候補者が2位に入ったことでは最後のものとなった。
背景

1908年の選挙で当時現職のセオドア・ルーズベルトは、大統領が2期を勤めた後は身を引くという長い間続いた伝統に従って再選を求めなかった。後継者としてウィリアム・タフトを指名し、タフトが1908年の選挙に勝利することになった。タフトの任期中に、タフトとルーズベルトの間に亀裂が拡大した。2人は共和党の中で2つの派閥の指導者となり、進歩派は裁判所と敵対し、女性と子供の雇用制限に賛成し、自然保護に賛成し、労働組合により近く、工業製品にかかる関税に反対した。保守派は実業家寄りで司法権の優越性を主張した。タフトは保守派の領袖であり、ルーズベルトは進歩派の指導者だった。1910年までに亀裂は深くなった。
候補者の指名
共和党の指名

共和党の指名候補者

ロバート・M・ラフォレット・シニアウィスコンシン州選出アメリカ合衆国上院議員

セオドア・ルーズベルト、元大統領ニューヨーク州出身

ウィリアム・タフト、現職大統領、オハイオ州出身


上院議員、ロバート・M・ラフォレット・シニア、ウィスコンシン州出身

元大統領、セオドア・ルーズベルト、ニューヨーク州出身

現職大統領、ウィリアム・タフト、オハイオ州出身

全国党員集会への代議員の中には、初めて州毎の予備選で選ばれた者がいた。予備選は、ボスによる政党支配を崩そうと望んだ共和党の進歩派が提唱した。全部で14州が共和党の予備選を実施した。ラフォレットは最初の4州の予備選のうち2州(ノースダコタ州ウィスコンシン州)で勝利し、タフトがその他の2州(ニューヨーク州ネバダ州)を制した。しかし、ルーズベルトは4月9日イリノイ州での大勝にはじまり、残り10州のうち9州(開催順にイリノイ州、ペンシルベニア州ネブラスカ州オレゴン州メリーランド州カリフォルニア州オハイオ州ニュージャージー州、およびサウスダコタ州)の予備選で勝利し、マサチューセッツ州をタフトに譲っただけだった。共和党の内紛を描いた風刺画

共和党全国大会は、6月18日から22日にかけてシカゴで開催された。ルーズベルトにとって不運なことに、タフトが早くから代議員の取り込みを始めており、予備選で選ばれた数は少数だった。タフトは南部州の党組織の大半から支持を得ていた。これらの州は1880年以降の各大統領選挙で堅く民主党に投票してきており、ルーズベルトは南部州が共和党の勝利に貢献しないことを理由に代議員の数が4分の1もいることに反対した(実際に元アメリカ連合国の州の代議員は209対40という大差でタフト支持だった)。共和党党員集会が招集されたときに、ルーズベルトは半数近い代議員の信任状に異議を唱えた。しかし、その時点では遅すぎた。代議員達はかってルーズベルトの一番の同調者だったエリフ・ルートを集会の議長に選任した。その後代議員達はアラバマ州アリゾナ州およびカリフォルニア州のタフト支持代議員団を席に着かせた。これらの州はそれぞれ、597対472、564対497、および542対529と接戦だった。ルーズベルトが予備選で勝っていたカリフォルニア州の票を失ったことで、進歩派の代議員は望みを無くした。彼等はそれに続く点呼投票の大半で「現在」(現職)に投票した。1872年の大統領選挙以降、共和党には大きな分裂は無かった。この時点で民主党は有権者の45%の支持を得ており、分裂は致命的なものだった。党員集会でのルーズベルトの唯一の望みはラフォレットと「タフト阻止」の同盟を作ることだったが、ラフォレットとの仲も疎遠であり同盟はできなかった。

ルーズベルトはタフトや保守派のせいで味わった個人的屈辱に我慢できなくなり、妥協の候補者の可能性も受け入れられず、ひどく打ちのめされた。6月22日の夜、ルーズベルトはその支持者達に党員集会から去ることを求めた。


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