1907年恐慌
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1907年10月の金融危機でウォール街に集まった群衆。右手にはフェデラル・ホールジョージ・ワシントン像が見える。

1907年恐慌(1907ねんきょうこう、: Panic of 1907)は、アメリカ合衆国1907年10月に発生した金融恐慌。構造的要因は前年制定のアームストロング法による資金移動であった。この恐慌はイギリス系投信に回復しがたい被害をもたらした。一方では現金の不足を証券でごまかす金融制度の脆弱性を露呈し、連邦準備制度の立法事実となった。
概説[ソースを編集]
生保の遵法と売国[ソースを編集]

1905年、JPモルガンドレスナー銀行とコルレス契約を結んだ。これをきっかけとして全米の資金がドイツ帝国へ投下されてゆくのであるが、資金をまとめ出したのは翌年からであった。皮肉にも、1906年のアームストロング法が資金集めに貢献した。大手生命保険会社の保有する株式がジョン・モルガンジョン・ロックフェラー、そしてクーン・ローブに売却された。この株式には信託会社株も含まれた。さらに、彼ら金融資本の保有した鉄道債が、今や彼らの実質的な傘下企業となった大手生命保険会社に売却された。株と債券の売り圧力は市場を緊張させた。一方、生命保険会社は1906年の法律で証券引受業務を禁じられた。証券投資をしたい場合は金融資本家の証券を購入したが、それは金融資本家らが傘下の生保に「買いオペ」させたわけである。このシャドー・バンキング・システムが、ドイツへ資金を供給したのであった。生保が他に稼ぐ方法といったらモーゲージ貸付しかなくなった。生保の非農地モーゲージ貸付は当然に長期の契約となった。金融資本家のドイツ投資も、生保のモーゲージも、見かけ上は短資であったが、資金は各地域の開発、特に電化に使われたので、契約は更新されて資金の流動性が失われていった。

1907年10月、ビュートの銅山王(Copper King)とも呼ばれたF・アウグスタス・ハインツらがユナイテッド銅社株の買占めを謀った。この株買占めは失敗に終わり、ハインツが頭取であったマーカンタイル・ナショナル銀行をはじめ、買占めに資金を提供したとされる銀行で取り付け騒ぎがおきた。翌週にはニッカーボッカー信託会社(英語版)が営業停止に追い込まれ、恐慌が表面化した[1][注釈 1]。ニッカーボッカー信託会社の倒産による関連金融機関での取り付けは連鎖していった。地方銀行は都市銀行から、全国の都市銀行はニューヨークの銀行から預金(バンカーズ・バランス)の回収をはかった。このためほとんど全国的に銀行で支払制限が行われ、多くの銀行が準備金の枯渇により破産した[2][注釈 2]ニューヨーク証券取引所株価は、前年度最高値と比較して50%まで暴落し、多数の銀行や信託会社で取り付け騒ぎが発生した。ニューヨークに端を発したこの恐慌はやがてアメリカ全土に広がって、多くの州法銀行、証券会社また地方銀行や企業が破綻し、失業者の数は300万人から400万人にのぼった[1]
自演の収拾と英国の凋落[ソースを編集]

この恐慌は、そのきっかけをつくった金融資本家らが収拾した。モルガンは、流動性を確保し金融システムを守る為に自身の資産を使っただけでなく、ニューヨークの銀行・信託会社を説得してマネー・プールを構築した。当時のアメリカには市場に流動性を与える中央銀行が存在していなかったため、モルガンがその役目を果たした形となった。恐慌は10月中に一旦終息したかに見えたが、11月初めに新たな問題が浮上した。大手証券会社ムーア&シュレイがテネシー石炭鉄鋼鉄道会社(英語版)(TC&I)の株を担保として3000万ドルを超える多額の借り入れをしていたことが明らかとなった。不安定な市場の煽りをうけてTC&I社の株価が暴落すれば、市場は新たな危機に見舞われるところであったが、USスチール社によるTC&I社の買収が実現し、危機は回避された。なお当時アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは独占資本を厳しく非難してきた人物であったが、この買収を黙認した。

恐慌の翌年、ジョン・ロックフェラー2世の義父としても知られるネルソン・オルドリッチ上院議員はオルドリッチ=ブリーランド法案を起草し、同法に基づいて1907年恐慌の調査と来るべき恐慌への解決策を提言するために国家金融委員会が設立された。ここで話し合われ、ジェイコブ・シフの支持も得た金融改革案が連邦準備制度設立の礎となった。

恐慌は信託会社を通じて拡大していたので、もう一つの結果を指摘する。この恐慌はイギリスの投資信託に未曾有の被害をもたらし、公開のものは当然として秘密準備金までも深く目減りさせた。恐慌のあと、イギリス投信全体の資産構成は下位証券の割合が三割を超えて、少なくとも第二次世界大戦勃発まで、この割合は増加の一途をたどった。ロンドンは投信の凋落にしたがい、国際金融市場の地位をボストンウォール街へ明け渡した。1906年末にはイングランド銀行が指標金利を引き上げた[注釈 3]。これは、英国の保険会社が米国の保険契約者に多額の保険金を支払うために英国から米国へ大量の金が流れ、ロンドン資本市場の流動性が低下し英国内で金が枯渇するのを防ぐためであった[4]。しかし、この措置は投信会社を十分に守りきれなかった。
アームストロング法[ソースを編集]

1880年代のアメリカにおける証券引受は、次に掲げるような個人銀行が行っていた。JPモルガン、クーン・ローブ、シュパイヤー(Speyer family, 全盛においてはロスチャイルドよりも富裕であったといわれる)、セリグマン(J. & W. Seligman & Co.)、キダー・ピーボディ(Kidder, Peabody & Co.[注釈 4], 現UBS)などである。しかし彼らは1893年恐慌で資金を引き上げてしまった。そこで資金がないなりにアメリカ国内金融機関の経営統合が進んだ。この中で三大生保が保有契約と総資産の両面にわたり顕著にシェアを拡大した(1900年、両面で五割に迫る)。


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