1905年の野球
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1905年のできごとを記す。

1905年4月14日に開幕し10月14日に全日程を終え、ナショナルリーグニューヨーク・ジャイアンツが2年連続4度目の優勝をし、アメリカンリーグフィラデルフィア・アスレチックスが3年ぶり2度目の優勝をした。

前年中止となったワールドシリーズがこの年から復活し、ニューヨーク・ジャイアンツがフィラデルフィア・アスレチックスを4勝1敗で破りシリーズを初制覇した。

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できごと

アメリカン・リーグは3割打者が2人だけという投高打低のシーズンであった。首位打者はクリーブランド・ナップス(後のインディアンス)のエルマー・フリックで打率.308であった。この打率は63年後の1968年にカール・ヤストレムスキーが打率.301で首位打者になるまで首位打者の最低打率の記録であった。またエルマー・フリックはもともとフィラデルフィア・フィリーズからナップ・ラジョイとともにアスレチックスに移ってきたが、フィリーズが移籍無効の裁判を起こし、結局アスレチックスを通過して前年クリーブランドにトレードされた。ナップ・ラジョイは1902年から3年連続首位打者でこの年は打率.329だったが、65試合出場で規定に足りず、同僚にタイトルを譲った形となった。なお規定に足りて3割に達したのはフリック以外にチャーリー・ヒックマン(打率.300)だけであった。

フィラデルフィア・アスレチックスの打者で最高打率はハリー・デービスの.284で、デービスはこの年の最多本塁打8本・最多打点83・最多得点93を記録している。この貧打打線を投手陣がルーブ・ワッデル(26勝)、フランク(20勝)、コークリー(20勝)、チーフ・ベンダー(16勝)で支えた。この年、ルーブ・ワッデル は27勝10敗、防御率1.48、奪三振数287で投手三冠を手中にした。

ナショナルリーグは、ニューヨーク・ジャイアンツが優勝したが、エースのクリスティ・マシューソン は、1903年にリーグ最多奪三振とともに30勝を達成、1905年まで3年連続で「30勝、最多奪三振」を記録しリーグを代表する投手となり、この年はルーブ・ワッデルと同じくナショナルリーグの投手三冠を手中にし、特に防御率はそれまでで最高の1.28(1909年には1.14)であった。これにマイク・ドーリンが打率.356を打ち、打線の中軸となった。

一方それまで3度首位打者に輝いたホーナス・ワグナーは打率.363だったがシンシナティ・レッズサイ・セイモアー が打率.377で上回り、首位打者を逃した。この年の打率.363は生涯で2番目に高い打率で、もしこの年にタイトルを取っていたら、ワグナーは1903年から1908年まで7年連続首位打者になるところであった。首位打者のサイ・セイモアー は打率.377の他に最多打点121・最多安打219本で彼としては最高のシーズンとなった。また彼はニューヨーク・ジャイアンツにいた頃は投手で1898年に最多奪三振239でリーグトップであった。打者と投手の両方でタイトルを取った珍しい例となった。
ルーブ・ワッデル

フィラデルフィア・アスレチックスルーブ・ワッデル は1902年から1907年まで6年連続でアメリカン・リーグの最多奪三振を記録し、前年の奪三振349のメジャリーグ記録はその後61年間破られなかったし、この年はワッデルの投手人生で最高の成績であった。そのワッデルの活躍でアスレチックスは1905年のワールドシリーズに駒を進めた。しかしワッデルはこの最高の年のワールドシリーズに出場できなかった。移動中の列車の中でチームメイトとふざけあっているうちに転倒し、肩を怪我して出場できなかったのである。彼の行動は予測がつかないほど突飛でその奇行癖は有名であった。しかしアスレチックス監督のコニー・マックは後年「チーム史上最高の投手」とも「史上最高のサウスポー」とも言い、そのカーブとストレートの球威はこの20世紀初頭のメジャーリーグの華であったと言われている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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