1904年セントルイスオリンピック
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前回のパリ大会から多くの競技種目見直しが行われ、クリケット、クロッケー、セーリング、バスクペロタ(ハイアライ)、馬術、ポロ、ラグビーなど欧州で盛んな競技が外された一方[注釈 1]、アーチェリー、綱引、ボクシング、ラクロス、ロック(クロッケーの北米版)が導入された。ロックを除く新規採用競技は1908年のロンドンオリンピックでも採用され、特にアーチェリーやボクシングは公開競技としてセントルイス大会で採用されたバスケットボールと共にその後も各大会で実施されるようになった。また、ウェイトリフティングは1896年のアテネオリンピック以来の実施で、その次は1920年のアントワープオリンピックで行われる事になった。一方、パリ大会に続いて行われたゴルフは前回優勝者のみしか参加者がいなかったためセントルイス大会を最後に姿を消し、その復活は112年後の2016年、リオデジャネイロオリンピックを待つこととなる。
公式競技とは別に「人類学の日(Anthropology day)」と称して、アイヌやインディアンなどの少数民族の体力測定を行う催しが行われた[1]。人種差別の発想が背景にあるとして後年批判的に論じられた[1]。
マラソンではオリンピック史に残る不名誉な事態が発生した。アメリカのフレッド・ローツが高温と疲労のため20キロ過ぎで道に倒れ、たまたま通りかかった自動車に乗せてもらい競技場に戻ることになった。ところが競技場に向かう途中で車がエンストで止まってしまい、そこから再び走り出してゴールするという不正をはたらいた。1着でゴールしたが、ゴール直後に車の運転者の告発により即座に不正が発覚し優勝は取り消され、その後ローツはマラソン界からの永久追放を命じられることになった。これがマラソン史上に言われる「キセルマラソン」事件である。ただし、ローツはほどなく復帰が認められ、翌1905年のボストンマラソンで優勝している。
代わって優勝したヒックスのタイム、3時間28分53秒は五輪史上最も遅い記録である。なお、このときヒックスは興奮剤入りのブランデーを飲んで走っており、現在のルールではドーピング違反となるが、当時はドーピングに対する明確な禁止規定は無かったため、ヒックスの優勝は現在も公式に認められている。
男子のみが行われた水球ではアメリカ以外の参加がなく、ニューヨーク・アスレティッククラブ(en:)などの3チームがアメリカ国内から独自に参加し、ニューヨークが優勝した。水球でアメリカが金メダルを獲得した例は、このセントルイス大会のニューヨークチームと、2012年のロンドンオリンピックでの女子アメリカ代表の2度のみである。
実施競技
陸上競技
競泳
飛込
水球 - 公開競技
サッカー
テニス
ボート
ボクシング
体操
レスリング
ウエイトリフティング
自転車
フェンシング
アーチェリー
ゴルフ
ラクロス
ロック
綱引
バスケットボール - 公開競技
野球 - 公開競技
各国の獲得メダル詳細は「1904年セントルイスオリンピックのメダル受賞数一覧」を参照順国・地域金銀銅計
1 アメリカ合衆国(開催国)908282243
2 ドイツ44513
3 キューバ4239
4 カナダ4116
5 ハンガリー2114
6 イギリス1102
混合チーム1102
8 ギリシャ1012
スイス1012
10 オーストリア0011
合計969292280
主なメダリスト
金メダル
アーチー・ハーン(アメリカ、陸上競技男子60m)
アーチー・ハーン(アメリカ、陸上競技男子100m)
アーチー・ハーン(アメリカ、陸上競技男子200m)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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