1904年の野球
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以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1904年のできごとを記す。1904年4月14日に開幕し10月10日に全日程を終え、ナショナルリーグニューヨーク・ジャイアンツが15年ぶり3度目の優勝をし、アメリカンリーグボストン・アメリカンズが2年連続2度目の優勝をした。しかし前年から始まったワールドシリーズは、ニューヨーク・ジャイアンツが対戦を拒否して中止となった。

1903年のメジャーリーグベースボール - 1904年のメジャーリーグベースボール - 1905年のメジャーリーグベースボール
できごと

アメリカンリーグの優勝争いは最後までもつれて、公式戦最終日のボストン・アメリカンズとニューヨーク・ハイランダース戦ダブルヘッダー第一試合で、ハイランダースのジャック・チェスブロ投手が最後に暴投してボストン・アメリカンズがアメリカン・リーグを連覇した。

一方ナショナルリーグは、ニューヨーク・ジャイアンツが、ボルチモア・オリオールズ(この年からニューヨーク・ハイランダース)からジョン・マグロー監督を引き抜き、戦力強化を目指して、1902年は途中から指揮を取って最下位であったが前年1903年は2位に躍進し、そしてこの年に優勝した。投手陣にはクリスティ・マシューソン(2年連続最多奪三振212)、ジョー・マクギニティ(最多勝35勝・最優秀防御率1.61)、打者ではロジャー・ブレスナハン捕手、ビル・ダーレン遊撃手(この年最多打点80)、これにトレードで獲得したマイク・ドーリン、アート・デブリンらが揃い、シカゴ・カブスに13ゲーム差をつけて、15年ぶりマグロー監督の下では初めてリーグ優勝した。マグローがオリオールズからマクギニティ、プレスナハン、ダーレンを連れてジャイアンツに入れ、それにクリスティ・マシューソンが頭角を現し、1903年から3年連続30勝を挙げて実力の片鱗を見せ始めていた。ここからジャイアンツをナショナルリーグきっての名門球団にマグローは育て上げた。

ニューヨーク・ハイランダースのジャック・チェスブロ投手はこの年41勝12敗で、この41勝は1901年以降のメジャー・リーグでは現在に残るシーズン最多勝利数である。しかもこの年にシーズン最多先発51、シーズン最多完投48も記録し、これも今も最多記録として残っている。しかしこの酷使が彼の投手生命を縮める結果となった。

フィラデルフィア・アスレチックスルーブ・ワッデルはこの年25勝19敗で奪三振349個で、これはその後1965年にロサンゼルス・ドジャースのサンディ・コーファックスが382個で破られるまで、1901年以降のメジャー・リーグの最高記録であった。しかもその後もノーラン・ライアンが383個(1973年)、同じくライアンが367個(1974年)、ランディ・ジョンソンが364個(1999年)、同じくジョンソンが372個(2001年)を記録しただけでメジャーリーグ史上6位の記録であり、左腕投手としては史上4位、そして現在でもアメリカンリーグの左腕投手の奪三振のシーズン最高記録である。

ニューヨーク・ジャイアンツのジョー・マクギニティ投手は、別名アイアンマンと呼ばれ、1899年から1907年まで9年連続で投球回数が300イニングを超え、特に1903年とこの1904年は400イニングを超えて、かつ両年とも最多勝となり、鉄腕投手であった。(1946年殿堂入り)

ニューヨーク・ジャイアンツのワールドシリーズ拒否

ニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー監督は、アメリカンリーグ優勝チームとの対戦を潔しとはせず、対戦を拒否し、この年のワールドシリーズは開かれなかったが、原因はバン・ジョンソン会長(アメリカン・リーグ)への反発であった。新しいリーグが出来た1901年にボルチモア・オリオールズの監督兼共同オーナーとしてジョンソン会長に迎え入れられたマグローだったが、会長の強引なボルチモアからニューヨークへの移転に猛反発して、マグローは対抗するナショナル・リーグのニューヨーク・ジャイアンツに移り、ジョンソンと対立した結果、この年のボイコットとなった。ジャイアンツの会長であるジョン・T・ブラッシュもジョンソン会長を憎悪していた。ところが、このボイコットはジャイアンツの選手の中からも批判が起こり、ニューヨークのファンや新聞などでも批判の声が強かった。選手の側からすれば、当時スター級の選手でも年俸3000ドルであった時代に、シリーズに出るだけで1000ドルの分配金を手にする機会を奪われたことは大きかった。ジャイアンツのブラッシュ会長はこのことで、その後に大きく考えを改め、翌1905年にワールドシリーズの開催規約を両リーグに提案し、コミッションによる管轄、収入の分配方法、選手の出場資格などを定め、それらは「ブラッシュ・ルール」と今日まで呼ばれている。

規則の改正


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